日記・コラム・つぶやき

どこに自分を落ち着かせるか

窓(H20.09.18NO78

「どこに自分を落ち着かせるか」

「これで、子どもが良く育つのでしょうか」と教頭先生。保護者からの電話を受け、その報告に来た疲れた様子の教頭先生。

自分の子どもが怪我をした。友達が投げた小石が額に当たったためだ。口げんかから土塊の投げあいになり、結果として額から血がにじむことになった。

「いったい学校はどのような指導をしているのですか」「石を投げてはいけないと指導しているのですか」「学級の児童が仲良くすることを指導してはいないのですか」「わが子がどれほど痛い思いをしたか考えると許せません」「先生も子どもの立場に立ったらその痛さが分かるでしょ」「怪我した状況を私の職場に電話で知らせ、連絡帳で傷の手当をしたと知らせただけで終わりにするのですか」次から次へと母親の口から学校非難の言葉が飛び出す。「ともかく学校側が家に来て、説明と謝罪をするのが当然でしょう。主人が夜8時にならないと帰宅しないので、8時に謝罪に来てください」ガチャン。すさまじい勢いで電話が切られたという。

 

 放課後の校庭での起きたけんかで、怪我した子ども自身が保健室に来て、養護教諭から手当てを受けている。養護教諭は擦過傷であったと教頭に報告している。しかし、怪我の部位が頭部であるため、教頭は担任に詳しく怪我の状況を把握させ、養護教諭の判断を聞いたうえで保護者に対する対応も指導していた。しかし、帰宅して子どもから話を聞いた母親は激怒し、学校に電話をしてきたという。

 このようなことは学校現場では珍しくない。「親は事が起きたとき、どのように対応したらよいか分からず窮したから、電話をよこしたのだ」「困っているのは親の方だよ」「だからまず話を聞いて、親が私たちといっしょに考えるようになるまで待ちましょう」と私は口癖のように教頭に話していた。

 人は困窮したときどうなるか。私は心理学者ではないので学問的にはどうなのか分からないが、経験だけで考えれば、まず、相手を非難すること、自分がすべて悪いのだと自己を苛むことが一般的なように思う。右に左に揺れた後どういうところに自分が落ち着くかがその人の生き方とかかわってくる。自分は自分だと開き直る、なぜ悩むのかその原因(原点)に戻る、やはり、相手が悪い制度が悪いと非難と批判を強める、悩むことをやめてしまう、自己を苛むことに終始するなど、色々あろう。

「何のために悩むのか、悩みを解決したくて悩むのではないのか」「悩むのはその人が自分にとって大切だから悩むんじゃないのか」「悩みがあることが幸福だよ。解決していこうというところに人としての幸せがあるんじゃないかな」「悩みを持ったのはチャンスだよ。竹で言えば節だ。次ぎの成長のためにここで強い節を作るチャンスだ」「相手じゃない、自分が変われば相手が変わる。まず自分を変える努力をするのが一番遠いように見えて早道だよ」私が人生の先輩たちから受けた言葉はこんな内容がほとんどだった。しかし、悩みの渦中にいるときはつらい。激励をしてくれる友がいれば、これほど力強いことはない。友でなくても話を聞いてくれる人がいればそれだけでも良い。しかし倒れた土に自分の手をついて立ち上がるのは自分でしかない。本来持っている自分の「生命の力」を信じるしかない。一気に好転はありえない。曲がりくねったトンネルを行くと同じで、いつになったら明かりが見えるか分からない毎日が続く。もう明かりなど見えないと思っていると、突然、目の前に明かりが見える。多くの人がそれを私たちに伝えてくれている。他人を非難しているうちは、トンネルの出口に向かう自分のエンジンを停止しているのと同じである。

今日も事務所電話に自分を棚に上げた方が子どもじみた論理を展開しているらしい。話を整理しながら、説明を継続している所員。しかし、所員の説明の途中で電話をいきなり切られたらしい。非礼な態度に職員の顔が曇る。職務と割り切ろうと自分を立て直しているようだ。「困っているからこそ・・・・・」と声をかけたいが、それも空々しい。職員の後姿に私はご苦労様と小さく声をかけた。

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一茶

窓(H20.08.29

NO77

「一茶」

藤沢周平が描く「一茶」を読んだ。

一茶は、「やせ蛙まけるな一茶ここにあり」に代表される小動物への軽妙な愛情表現、「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」と現代の人にさえ分かりやすく好々爺の慈悲深い心情を軽易に表現する。しかし、周平の小説「一茶」には晩年の句にイメージされる一茶像とあまりにも違う眼を背けたくなるような他人を嘲け、罵り、妬み、自嘲する醜い姿が描かれていた。しかし、同時にだからこそ生み出せたのだろう晩年の句の深さとその非才さも描かれていた。

早春梅の香りに誘われて繰り出す江戸の庶民を虱に例えて、「梅咲くや里に広がる江戸虱」と詠む一茶。「よろよろはわれも負けぬぞ女郎花」「よるとしや桜さくも小うるさき」そして「死支度致せ致せと桜哉」と拗ね、自嘲する一茶。義母と折り合いが悪く、実父によって江戸に丁稚に出され、職を転々とし、定職に就けず、赤貧で過ごす日々を送った一茶は、食うため金儲けのために俳諧の博打に手を染め、それを足がかりとして俳諧師の道を歩むことになる。所詮俳諧師といっても一流でなければ宗匠として、食べてはいけない。田舎周りをして、俳諧を嗜む富農、富商に寄食するしかなかった。「何が怖いって、舌出した米櫃ほど怖いものは無いからな・・・」という生活である。

少年の頃の一茶は、百姓仕事の手を止めて、道を通る行列、畦の花々、小動物に目を凝らしていたため、義母に散々叱られていたというから、一つのことに執着する性癖であったのだろう。だから一般は見逃しても一茶は見逃さない眼が育っていった。「何が花だ、月だ、蝶だ。蚤も虱も俺の屁さえ、句になる」と嘯くのは、単に妬みだけではなく、赤貧と家も妻も無い40数年の生活の中で澱のように溜まっていった虚飾の無い人間としての感覚だったのだろう。

藤沢周平はあまり実在の人間を描かない。しかし、結核のために入院していた折、俳句を学び、そこで出会った一茶に自らの姿を投影させていたのだろう。そして彼は小説として「一茶」を描くことになったようだ。

「ちる花やすでにおのれも下り坂」「老いぬれば桜も寒いばかり哉」などの句に私は苦笑しながらもなぜか引かれていく。凄愴な句を生み出すこと万を数えるという。私の中に在る自嘲の波長とどこか共鳴するのはなぜだろうか。周平の小説を愛読している私がいつもより一歩引きながら「一茶」を読み続けていたのだが、いつの間にか一茶の句に惹かれ始めている。

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通夜のあいさつ

窓(H20.06.18

NO74

「通夜のあいさつ」

 昨夜の酒がまだ抜けきれない。しばらくぶりに今日の土曜日は仕事に絡んで出かける必要がない。髭も剃らず、頭も梳らず、庭の芝生の上でタバコをふかしていた。8時45分。突然家がガタガタと鳴り出し小刻みに揺れ始めた。一瞬「来たか」と思った。確率90%以上という宮城県沖地震のことである。30年前、目の前で一軒の家がマッチ箱をつぶしたように潰れ、勤務する小学校の木造校舎の二階の屋根が一階の教室まで崩れ落ちた。自宅の家具はすべて倒れた。すべてのガラスは割れていた。一瞬頭をよぎったのはそのことである。

 幸い予測されている宮城県沖地震ではないことがNHKの報道で分かった。震度は6弱。定期入れに入れて常に持ち歩いている勤務先の職員配備計画を見た。5強以上の地震が発生したら正職員は全員出勤することを確認した。二階にいた妻に向かって「すぐ出勤するぞ」と大声を出した。妻は「何かお腹に入れてから出勤してください」と急ごしらえの朝食を用意した。

 車で普段なら40分程で着く勤務先の事務所まで80分かかった。事務所にはもう一人の職員が出勤していて、事務所の被害状況を把握していた。すぐ、事務所が関係する主な方々に電話で安否を確認し始めた。電話連絡はなかなかつかなかったが、半数以上の方々の状況を取りまとめ、「被害を受けた方々は現在いない」と本社に報告した。一息入れた時、県南に住む自分の長男の家族が心配になり、連絡を取った。地震発生から3時間がたっていた。

「どうだ。家族に怪我がないか?」「驚いたけど、誰も怪我していないし、家もだいじょうぶ。親父は今どこにいる?」「事務所に来ている」「やっぱりな。孫を心配するより、まず勤務先に行ってしまう・・・。お母さんが言っていたよ。宮城県沖地震の時は家族が放っておかれたのって。親父の通夜の挨拶では参加者にこのことを伝えたいね」と長男は笑っている。

栗原地区の方々のお気持ちを慮ると居たたまれない想いである。まずは自分と自分の家族の安全を確保すること、その次に近隣に目を向けること。近くの方々との共助無くては身の安全は保てない。すぐに勤務先に出てしまった私は今、今後地震があったらどう行動するか今一度考える必要があると思っている。

次男からその後電話連絡があった。「今どこにいるの」と聞く私に次男は「え!当然会社でしょ。後片付けが大変なんだ。親父も事務所でしょ」と当然ののように言って、電話が切れた。あ~~あ。恋人といっしょにデートだと飛び出して行ったのに。恋人をどうしたんだ。オイ、オイ。

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ぶさいく

窓(H20.05.28NO73

「ぶさいく」 

我が家の庭で子猫が二匹元気に育っている。隣家との境にあるヒマラヤシーダの根元と塀の間、ほんの30センチメートルの隙間が二匹の寝床である。どういうわけか我が家では、飼っていた猫が命尽きると次ぎにまた野良猫がいつの間にか居つくというサイクルになっている。今回出産した猫は我が家の猫が亡くなってから1ヶ月ほどたって現れた。食べ物の匂いをかぎつけて台所にふっと姿を現した。真っ黒な猫なので「クロー」と呼びかけると警戒しつつも逃げもせずこちらを見ている。そんなことが数日続いたので、餌を与えた。数週間で家に入るようになったものの人間のひざに落ち着くことはない。野良猫生活が身についてしまったようである。何処かの家でも餌をもらっていると思うほど胴が丸々太っていた。そう高をくくったのが間違いで、実はお腹に赤ちゃんを宿していたのだ。 

数日間クローが姿を見せなかった。どこで出産したのだろうと心配をしていると突然子猫をくわえて私の書斎に入り込んできた。コタツの中に二匹の子猫を運び込み授乳している。日中は誰もいない我が家である。書斎を猫たちに占領させるわけにはいかない。急遽段ボールで猫小屋を作り1階居間のベランダにおいてやった。しかし、クローはどうしてもその小屋が気に入らない。子猫を連れて何処かに行ってしまった。また数日後、かすかに子猫の鳴く声に耳を澄ますと冒頭の場所に居場所を決めていた。クローは子猫を見てほしいとまるで私を誘うように導いた。白黒が一匹、真っ黒が一匹。計二匹がいた。白黒は目鼻がはっきり分かるが、真っ黒は目まで黒いのでどこが目でどこが鼻か分からない。私の団地の野良猫たちはほとんどが茶色と白の二色が多い。特に茶色の大型の猫が私の家の庭を横切っていく。きっと子猫たちの母親はどこかの団地から運び込まれたに違いない。 

私が勤務している事務所を出て帰宅しようと歩道を歩いていると、私の後ろから大きな茶色の毛並みの頭が急に追い越して行った。若い男女の自転車二人乗りである。後部の荷台に乗っている女性は白いトレーナーを着て茶色のポシェットを提げ、長い茶髪をなびかせていたので、私は一瞬大型の二匹の猫が走りすぎたように錯覚した。真っ黒の猫は薄暗い寝床にいてもいるかどうかよく分からない。闇夜の烏状態である。ごそごそと急に動き出すと少し気味が悪い。そういえば、黒っぽい背広を着て、黒い頭髪の集団が通勤電車から吐き出される姿を見た外国人がその異様さに驚いたとの記事を思い出した。茶髪も金髪も灰色髪もあることが西洋諸国では普通だからだろう。 

茶髪をなびかせている若い男女の背に「よ~~っ!かっこいいぞ!」と急に声を掛けたくなった。颯爽と茶髪をなびかせている若者様子をなぜか心地よく感じたのは、目も全身の毛も真っ黒な子猫の姿が私の意識のどこかにあったせいだろうか。 

真っ黒な子猫を見て愚息が「ぶさいく」と言ったので、名前だけはと思い「キュート」と付けた。 

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新たな朝

窓(H19.12.23NO60

 

「新たな朝」

 

 生まれたての雲がたゆたいながら山稜に向かって這い上がる。視界に入る山は黒々としてこれから白雲になる白糸の雲を生み出している。山の間を縫う濡れた道路は、視界を遠くに移すに従って山に溶け込んでいく。山の温泉地の払暁は若い娘の素顔である。見ている人たちの優しい笑みを誘う飾らぬ姿である。ホテルの11階から見える化粧前の風景は40年前見たどこかの風景と私の中で重なっている。

 

 40年前に出会った妻が今年今月で還暦となった。昨夜は二人でそれを祝った。40年前に何度も同じような風景を見たように思う。若い私たちは明け方まで語り合い、ふと窓を開けると音もなく降った深夜の雨が止み、朝日が昇る前のぼんやりした風景に白糸が徐々に束ねられていくような雲がたゆたう姿を二人で見ていた。

 

 昨夜は40年間を一つ一つ振り返ってみることもなく、今日まで床に伏したことがあったが特段の病ではなく健康でいられること、今まで働き続けてきたこと、これからを楽しみにしていることなど取り留めなく語り合っただけである。妻は今でも出合ったころと変わりなく私にとっては美しい人だし、自分を失わない忍辱の人である。今、窓の外を見ている私の部屋の次の間で軽い寝息を立てている。きっと起きざまに言うだろう。「さあ!温泉に入ろう!」

 

 長男は伴侶を得て二人の子どもをもうけた。次男は恋人がいて正月早々家に挨拶に連れてくるという。朝日が雲間から光の束となって山の木々を照らした。枝に付いていた水滴がその光を受けて光る。しかしまた雲にさえぎられて光は沈黙する。その繰り返しが新たな朝を開いていくのだろう。

 

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晩秋の風景

窓(H19.12.NO58

「晩秋の風景」

木枯らしが吹いている。ケヤキの枯葉が群れになって歩道や空き地を走る。その姿は小学校の休憩時間の校庭の様子さながらである。ボールに向かって一斉に駆け出す、ボールを持った子がふと方向を変えると、追いかけていた子どもたちが一瞬渦巻き状態になる。校庭にはそちらこちらに子どもの塊ができる。かけながら大声で叫ぶ、その声が校舎にはねかえり、声の渦になる。 木枯らしがケヤキの枯葉に命を与え、群れさせ、カラカラと笑い声を上げさせ、走り回らせる。晩秋のいつものこの風景は私を微笑ませ、それを私はこらえることができない。

 出勤時に新たな音が加わった。ザー、ザー、ザー。息が白くなりそうな朝。街路樹が春に向かって、新たな衣に着替えるため脱いだ衣装を歩道の上にはらはらと落とす。その色づいた歩道上の落ち葉を竹箒で集めている音である。大きなビルの前で帽子をかぶり、会社支給のユニホームを着た男性が竹箒を斜めに構えて箒を振る。とんかつ屋さんの前で三角巾をかぶった若い店員が小さな前掛け付近に箒を構えて、ザッ、ザッ、ザッとリズムを刻む。銀行の前では背広姿の若い男性行員が箒を立てに構えてぎこちなく、ザザ、ザザ、ザザと音を立てる。晩秋に加わった街の音。心地よい音に事務所に向かう私の足もリズミカルになる。

 

 出勤時に雪がちらついた。地下鉄を降り、プラットホームから階段を登り始めるといつもと違った雰囲気が私を包んだ。階段のところどころに茜色の模様が付いて、どことなくいつもより華やいでいる。階段の御影石の灰色をバックにした茜の模様は、階段に一枚二枚と張り付いているカエデの落ち葉である。小雪でぬれた公園の道からこの階段まで急ぎ足で通勤する人たちに運ばれて来たらしい。改札を抜けると黄はだ色の石の通路に出る。石の通路上は、公園のカエデの木々が茂っている駅入り口が近いせいか、カエデ葉が増え茜色が一層艶やかである。一瞬、出勤前の気分は吹き飛び、周りの人々の迷惑も顧みず、歩をゆっくりと進めたくなった。こんな晩秋の美しい一瞬を都市の真ん中で味わえるとは思ってもみなかった。私は、通勤者が無表情に急ぎ足で通り過ぎる地下鉄通路で、場違いにも笑みがこぼれた。

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喫茶店

窓(H19.12.3NO5

「喫茶店」

私が行く喫茶店では、客が店でいれていただいたコーヒーを自分の席まで運び、自分で片付ける。私は、コーヒーを自分で運ぼうと運んでいただこうとコーヒーの香りと暖かな部屋という快適な空間があれば幸せを感じる利己主義者を決め込んでいる。

ところで朝日新聞の天声人語で、駐日大使を長く務めたマイク・マンスフィールドさんが自ら来客をコーヒーでもてなすことで有名だったことが紹介されていた。彼は、来客に「コーヒーを一杯いかが」と聞くと、大使室の奥の小さな台所に入り、カップを運んでくる。日本の大使に赴任したのは77年。当時はまだ一般的だった日本女性のお茶くみの慣習への抗議の意味が込められていたという。お茶くみは、それをさせられる人をおとしめると彼は考えた。「私がコーヒーを入れることで、彼女たちの立場を楽にしてあげたかった」という。

ところが、時代が倉皇の様を呈しているからか、短時間のコーヒータイムを楽しめる場所が街角にできている。しかも電子マネーのカードを利用すれば200円以下でコーヒーが飲める。時間制限が気になったので聞いてみると「ご自由に時間をお過ごしください」とのことであった。しかし、「敵もさる者、引っ掻くもの」で、椅子が長時間利用を許さないようにできている。1時間程度で椅子の利用を断念せざるを得ない。でも気温が13℃を下回る地下鉄プラットホームベンチに耐えられなくなった私にとっては、少々苦めに入れてある温かい「本日のコーヒー」と「適度の室温」は、読書に集中させてくれる最高の環境である。

 学生時代、時間つぶしには格好の場所があった。喫茶店である。駅周辺に必ず数軒あった。コーヒーいっぱいで数時間本を読むことが出来た。おまけにクラッシックの名曲つきである。読んだ本や新聞記事の印象をメモしたり、自分の考えをまとめたりするにはこれほど都合のよいところは無い。毎日一回は利用していたのではないだろうか。また、友人との議論の場所として利用することも出来た。しかし、今は駅周辺が全国展開の居酒屋で占められ、学生時代と同じような喫茶店の影もない。

 35年ぶりに通勤時の交通手段が、自家用車をやめ、公共交通機関を利用するようになってから約8ヶ月が過ぎた。今はバスや地下鉄の中での読書が最大の楽しみになった。気温が17℃を下回らなかった10月までは、勤務時刻前やバスの待ち時間は、地下鉄のベンチで読書が出来た。しかし11月からはそうもいかない。地下鉄のプラットホームも結構冷え込むようになって来た。

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明るいのが、い~~い!

窓(H19.9.14NO49

「明るいのが、い~~い!」

 

8月28日(火)バスの窓からとあるコンビニエンスストアーが目にとまった。いつも通る場所なのだが今日はいつもと違った雰囲気があった。それは何本かののぼりが店の前に立てられたからである。「おでん」「中華まん」の幟(のぼり)である。クールビズ姿でネクタイを締めないことを満喫していた私は少々驚いた。もうそんな季節になるのか、6時20分だというのに太陽は西の山の端に近づくにはまだまだ時間がかかりそうなのにと思った。

 

9月7日(金)帰宅のバスで妻と一緒になった。バスの中には会社帰りの若い女性が数人乗っていた。一人はノースリーブのシャツを着て、持っているハンカチで顔に風を送っている。高校生は白いシャツの胸ボタンを二つはずし、ネクタイの結び目を胸元まで引き下げ、それが紐のようにぶら下がっている。バスの冷房は確か効いているはずである。まだまだ暑い日が続いている。

 

妻と一緒にバスを降りた。私がバスを降りる停留所は団地で最も高い場所にある。西に連なる山々が良く見える場所である。この場所から夕日が雲を茜色に染めながら山の端に沈む様子を毎日のように堪能してきた。しかし、今日は夕日がとっくに沈み、自宅に続く道は残照のせいかぼんやり私の前から延びている。妻が「暗くなるの、いやだ~~ぁ」「明るいのが、い~~い」女子高校生のイントネーションをまねて言う。

 

春は日の光が先行する。よく言われる「光の春」である。外はまだ底冷えして気温は上がらず、風はまだまだ冷たいのに日の光だけは春の到来を私たちに告げる。秋は太陽が沈む時刻が早まることで秋を予告してくれているようだ。薄暗くなった自宅への道を「明るいのがい~~い」とふざけ半分に言う妻の声を何度も聞きながら、今は太陽よりもコンビニエンスストアーが次ぎの季節を知らせてくれる。季節を俗っぽいもので感じるようになったものだと独り言ちた。「猫が夜近づいてきて秋が来た」(毎日新聞川柳)。今夜あたり我が家の猫はどうするのだろう。

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窓(H19.9.13NO48

 

「蜂」

 

蜂に刺された。生垣に取り付いている葛や山藤を取り除くために敷地の南側で雑草を刈り払っていた。刈り払いも一段落しそうになった頃、塀の脇に60cmほどに伸びた柘植(つげ)が目に入った。昨年も一昨年も生えていることは分かっていたが切り倒さずに放置しておいた。しかし、今年ばかりはこの柘植を切って今日の刈り払いを終了しようと思った。柘植の木の上部を左手で引き、右手に持った鎌で切り倒そうとした私の目に入ったのが、直径5~6cmほどのキアシナガバチの巣である。瞬間左手を離し私は後ずさりした。巣から2メートルほど離れた。巣から一斉に蜂が飛び立つことはなく、ほっとした時、一匹の蜂が一直線に私に向かってきた。私の目の高さである。振り払おうとしたが慌てていた。蜂は私の額に思いっきり体当たりをくれた。バチッという音がした。刺すというより体当たりである。しかし、単に体当たりだけではなかった。私の額に激痛が走った。

 

刺された場所を思いっきり爪でつまみながら家に駆け込んだ。後頭部や首筋まで経験したことのない痛みがはしり出した。体からは焦りのせいか汗が滴り落ちる。自宅には蜂に刺された時の薬など常備はしていない。しかたがない。蚊などに刺された時の痒み止めをとりあえず塗った。妻が蜂刺され対策をインターネットで調べた。「玉ねぎをすったものを塗ると良い」「純粋な蜂蜜を塗ると良い」妻がマウスを動かしながら言う。痛みは継続し、広がる気配だ。妻は「ショック状態になったら病院だって・・・・」「要するに冷やすしかないみた~~い!」私は、額を大きく腫らしては明日から勤務先を休まなければならないだろうとか、救急車を呼ぶのは大げさだとか、確か蜂はスズメバチではなかったとか、休日医を調べて電話をしようとかさまざまな事が頭の中を駆け巡る。

 

薬箱の中に発熱時用の冷却材が目に入った。「10時間用、気分転換やリラックス効果あり」との効能である。何でもいい、ひとまずこれで刺された場所を冷やすことにした。汗は滴り落ち、止まらない。

 

刺されてから30分経っただろうか。汗も引き、痛みも落ち着き始めた。その後私がハチ毒について調べてみると、アナフリィラキシー(急性アレルギー症状・・・死に至る事がある)が現れるのは刺傷後15分以内と分かった。特に腫れも拡大していないようだ。冷却材を額に当て、その上から鉢巻をした。その姿を見た妻が、「刺されるのが2回目になると死ぬかもよ~~」と脅す。たしかに一度蜂に刺された人は、アレルギーの検査を受けるようにとの記述もインターネット上にはあった。

 

痛みが落ち着いたころ私は、身を賭して巣を守ろうとする私を刺した蜂のすさまじい姿に感動していた。私をめがけて向かってくる蜂のスピード。私の目を標的にすること。刺すことで蜂自身が死を迎えることなど。刺された瞬間のスローモーション映像を頭の中で何度も再生をさせながらぼんやり考えていた。

 

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楽天イーグルス

窓(H19.9.11)NO47

 

 「楽天イーグルス」

 

 台風一過。一面の青空である。空の青さを一層きわ立たせるために浮かんでいるかのようにわずかの雲が浮かんでいる。軽やかな雲の周りは真新しい綿をちぎったように毛羽立っている。一週間以上曇りと雨だったためか、今朝の青空はとりわけすがすがしく感じる。

 

 すがすがしく心浮き立つ理由がもう一つある。プロ野球観戦に今日行くのだ。やはり本物をこの目で見るのとTVで見るのとは全く違う。選手の顔も各種データも球団の調子もTVでは詳細に解説してくれるが、野球場では大型スクリーンに選手の顔写真と打率が10数秒映し出されるだけである。打席に立つ緊迫した選手の表情はもちろんうかがい知れない。しかし、投手が146キロの球を投げるそのスピードは実感できる。打者ごとに、そして何塁上に選手がいるかによって守備位置を変える野手の動きの巧みさも実感できる。時には身の危険を感じさせるほどの勢いで迫ってくるファールボールも野球場でしか実感できない。

 

 今日、楽天が迎える敵はロッテである。私は試合開始2時間前に早くも家を出発した。

河北新聞の2005年10月19日の河北春秋で今日の敵ロッテについて触れている。

「プロ野球ロッテは1972年、東京スタジアムが閉鎖されたことで本拠地を失った。翌年から5年間、県営宮城球場を中心に各球場を転戦した。本拠のない悲哀を人はジプシーと呼んだ。(中略)ジプシーが災いし、人気は長く低迷した。史上ワースト、18連敗の記録を持つ。それがどうだ、バレンタイン監督の采配配(さいはい)はボビー・マジックとたたえられ、「世界一のファン」で球場は沸き立つ 。判官びいきの血が騒ぐ。世の中こうでなくちゃねぇ。盛者必衰。敗者復活。」(以上引用)

 

 強くなったロッテに楽天は1回目から点を取られ、毎回のようなヒット攻撃を受けて、あれよあれよという間に10点を献上してしまった。楽天は2点をやっともぎ取ったものの試合終了。しかし、試合終了後はどこかのファンと違って、監督に生卵をぶつけるなどという無礼は働かない。かつて宮城球場を本拠地にした今は敵のロッテの応援のすばらしさをたたえる声がそちらこちらで聞かれ、また生のプロ野球を我々宮城の人々に見せてくれたことに感謝する声も聞かれた。東北人は楽天の勝利をじっと待つくらいの度量を持っている。だから相手を称え、感謝する気持ちも忘れないのだ。盛者必衰。敗者復活・・・・・と自分に言い聞かせて、青空がいつの間か夕暮れにかわってきた球場を後にした。

 

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あなたは大切な人

               窓(H19.9.7NO46

「あなたは大切な人」

 

「私の病気はもうすぐ良くなると言われたんだ。でも病気が治ったら、病気の前と同じ出来事が起きるんじゃないかと思うと嫌だ。だから病気が治っても生きていけない気がする」電話の向こうから聞こえてくる教え子の声。声は1年前にあった時よりだいぶ輪郭がはっきりしている。快復に向かっているのがわかる。病気の最中は現実を見ないですんだ。快復に向かった今、目の前の現実と過去の出来事という大きな壁に前に進めない教え子。「音楽だけが私を表現できるただ一つのことだし、音楽活動だけは続けて生きたい。でも生活のこともあるし・・・・」「病気の最中も音楽活動は続けた。それしかないから。でも周りの人には病気なんて嘘だと言われてしまうし・・・・」

 

彼は自分の尊厳を踏みにじられた過去を持つ。これからも自分の尊厳をいつ踏みにじられるか知れないという恐れ。周りの友人は才能を高く評価している。純粋な心をもっていることを知ってくれている。でも彼は自分では自分を評価できない。帰国子女の彼は、日本に帰国してすぐいじめに遭ったという。電話の向こうから伝わってくる苦悩に私は絶句した。目の前の音楽にすべてを燃やし尽くすことに夢中になりなさいとしか言えなかった。過去に教え子の尊厳を踏みにじったやつは鬼畜だ。彼は感性が鋭く、文章力は群を抜いて優れていた。今は詩を書き、作曲もしている。その詩には生きようとする叫びそのものが表現されている。自分の存在を大切に思えない教え子。教え子の人生を捻じ曲げたやつらが許せない。

 

私の義父は参議院選挙の投票に行かなかった。前回投票所で義母に「誰に投票するんだっけ?」と聞いた義父。投票所では声に出して政党名や候補者名を言う行為は禁止されている。前回は立会人の方から注意は受けなかったものの義母は、もう投票行為は無理なのではないかと思い、今回どうするか本人に聞いてみた。義父は「行かない」と言ったという。義父の胸にどんな思いが今あるのだろう。社会人として自己の存在に区切りを付けていいのだろうか。メモを持ってもいいだろうし、手に書いて行ってもいいだろう。それも止めて投票という行為を放棄してもいいとなぜ決断したのだろうか。高齢者の社会人としての存在、いや基本的人権をどう保障してやったらいいのだろうか。私は投票結果の写るTVをぼんやりながめながら憂鬱だった。

 

教え子と義父。どちらも一方は周りの人間から、また一方は高齢ゆえの記憶障害から人としての尊厳を守れなかった。「これからは人権をどう守るのかを競争する時代でなければならない」と喝破した識者がいた。「あなたは大切な人」だという周囲の心と社会としての保障が人には必要だ。自分の存在価値を見出せなければ生きるのが辛い・・・・・・。

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睡  蓮

窓(H19.9.3NO45

 

「睡  蓮」

 

今年度も健康診断が始まっている。受付が終了してから大変手際のよい流れで、2時間もかからずに終了する。胃検診時に飲むバリュームも以前に比べたらずいぶん飲みやすくなってきた。数週間後、検査結果が手元に届いた。健康診断結果通知書には、基準範囲以外の数値は、軽度有所見、要経過観察、要精密検査、要医療の四段階で結果が示される。そればかりか、検査項目ごとに◇、○、◎、●などの判定記号も記入されている。何度ながめても昨年度に比べ、基準範囲に戻った項目はない。

 

2007年8月31日発行の「厚生福祉」(時事通信社)によると、日本人間ドック学会が昨年人間ドックを受診した人のうち、「異常なし」と判断された人の割合が11.4%で、1985年以来最低であり、05年の12.3%を下回ったと報じている。肝機能異常、高コレステロールなど生活習慣病に関連する項目に異常が見られた人が25%前後と目立っているとも書いている。同学会では「職場などでのストレスが生活習慣を悪化」させているのではないかとしているという。

 

市社協の会議に出席すると、いつも市社協が入っているビルの前庭に立つ。前庭は和風庭園になっている。その場所がしばしの憩いを提供してくれる。大きな池を囲んでさまざまな樹木が配され、池を渡る橋まで架かっている。8月に入ってその池に睡蓮の花が咲いた。白、ピンクそして白い花びらの先端だけをピンクに染めた花、強い日差しを樹木の日傘で避け、水面に浮かぶ花姿はストレスも吹き飛んでしまうほど心を癒してくれる。

 

ストレスは無ければ良いというものでもない。前に進むためには必ず顔に風が当たる。弱風ならまだよいが、時には烈風もある。それは自分を見つめたり、新たな自分を形成したりする機会となる。しかし時には癒されたいと思うことはある。

 

睡蓮の花言葉を調べてみた。純情、純粋、清純、信頼、信仰である。なるほどと納得した。我執と悋気を洗い流してくれるはずである。

 

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少年の夢の時間

窓(H19.8.8NO34

「少年の夢の時間」

  私は、市郊外で育った。国道から小道に折れ、7,8分、田んぼのあぜ道を通り、その後山坂を4,5分登ったところに家があった。隣の家といっても国道付近に数軒ある程度である。物心ついてから小学校3,4年生まではよほどのことが無ければ、坂を下りて国道までは行かない。だから一緒に遊ぶ友達は居ない。それでも寂しいことはない。家には猫と犬が一匹ずつ、山羊が5頭、鶏が50羽、おまけにハツカネズミが30匹もいた。家にいればこれらの動物が私と遊ぶのを心待ちにしている。猫は兄にいじめられて私の顔を流れる涙をなめて慰めてくれる。子山羊は私の背中に乗っかりたくてジャンプする。犬は私が投げてくれるのを待ちきれずボールをくわえて体当たりしてくる。鶏の世話は私の係りであり、餌づくりのための蜆(しじみ)割りやハコベ探しそしてもちろん毎日の卵拾いも楽しい。

 夕方は遊びほうけてはいられない。山羊を山すその餌場から小屋まで連れてくる、鶏の餌やり、ハツカネズミの餌やりと水の交換、それらが終わらなければ夕食のテーブルまでたどり着けない。相手は生きている動物たちだからである。

  そんな生活の中で私の最も待っている季節がある。それは夏である。私が心待ちにしているのは七北田川で泳ぐことでも、動物たちと遊ぶことでもない。百合の花が咲くことだ。20枚ほどの田んぼを縁取っている雑木林のはずれに、毎年20個も30個も花を付ける百合は、私が待っている百合ではない。家の近くの山裾に突然ある日一輪だけ花を咲かせる百合がある。風が吹けばゆらりと揺れる。真っ白いその姿は遠くからもはっきり見える。少年の私を手招きし、語りかけるように思われる。香りは私の体も心も包み、一瞬私を立ち止まらせる。百合との距離は10メートルぐらいだろうか。わたしはその場に腰をかけ、百合との語らいが始まる。何も具体的なことを話すわけではない。ただ百合の姿を見て語らっている気持ちになるだけなのだ。夏の一日、家族には全く知られていない夢の時間である。それは夏の初め一週間ほどで終わる短い夢の時間である。

  自宅を購入したとき、まず庭に植えたのが百合である。今、カサブランカが咲いている。

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10秒の時間調整

窓(H19.8.8NO33

「10秒の時間調整」

  バス通勤を始めて4ヶ月がたった。35年間自家用車で通勤した私にとってはバス通勤中の出来事は大変新鮮である。

  市内中心部はどうしても交通渋滞があり、時刻表どおりには運行できない。交通渋滞を織り込んだ時刻表になっているようだが、それがかえって仇になる場合がある。渋滞がさほどでない場合は時刻表より早くバスが停留所に着いてしまうことである。そこで時間調整をすることになる。時間調整は他車両の邪魔にならないことも大切である。よって決まった停留所で調整する。

  「1分半ほど、時間調整のため停車します」と運転手の声が車内に流れる。1,2分なら乗客は何も言わない。ある時「50秒ほどお待ちください」と車内放送があった。厳密だなと思った。バス利用者にとっては時刻表で表示された時刻より先にバスが行ってしまったら、不満は大きいだろうと想像できる。このバスが50秒後に発車し、5箇所目のバス停に止まったときである。「時間調整を10秒間いたします」との再度の車内アナウンスが流れた。

  「何!10秒だと!」私は思わず口に出してしまいそうになったが、言葉を飲み込んだ。私は1時間ほどバスに乗っているため、いつも本を持参しそれを読んでいる。しかし、その車内放送が流れたあとは、10秒の重さを考え、今まで夢中になっていた本を読めなくなってしまった。

  時刻表どおりの運行はどのようになされているのか?停留所で行う停車時間延長による調整、バスの走行速度による調整・・・。それ以外に方法が思いつかない。何せ不特定多数の車両が利用する道路である。どんなことが起きるか分からない。そして道路状況は毎日違うはずである。朝の出勤時に「このバスは、市内で起きた交通事故による渋滞のため16分遅れで運行しています」という車内アナウンスを聞いたことがある。そのとき私は「仕方がないさ、バスは遅れるのが常だから」と気にもとめなかった。

  しかし、10秒の時間調整に神経を使うのはなぜか。きっと市民による不平不満、非難が日々寄せられているからに違いない。台風で不通になった新幹線に対して、対応がまずいと平気で語る乗客がテレビに映し出される日本である。どう対応したにせよきっとこの人は対応がまずいと語る人なのだろうと思ってしまう。私たちの住む社会はもう「許容」という言葉が無い社会なのかもしれない。相手の非を見つけるとたちまち寄ってたかって声高に非難する社会なのだ。だから人とかかわりを持たないようにすることが安全であり、無口を決め込むことが身を守るすべとなるのだろう。「10秒の時間調整」は今の社会の怖さを実感させてくれた。

 

 

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窮 地

窓(H19.8.7NO32

「窮 地」

人間が窮地に立ったときどう行動するか。どう行動しても巷の非難中傷が続く。そんな時は打つ手がますます窮地を呼ぶのではないかと臆病になる。そうなれば打つ手が守りに入り、それは雪だるまが坂を転げ大きな雪だるまになるように非難中傷が大きく自分を取り囲むようになる。

  今、藤沢周平の小説を読んでいる。中堅どころの紙問屋が主人公である。自らの親切心が自滅への道に繋がる気配の中、同時に大店の紙問屋から難題を持ちかけられる。商売の危機と自分の老いと欲望が真綿で自らの首を少しずつ少しずつ締め付けていく。さて、まだ上巻を読んだばかりである。主人公は果たしてこの窮地をどう乗り越えていくのか、はたまたこの窮地によって自らの破滅の道へ進んでいくのか。下巻を読み始めたところである。

 さて、安部総理大臣は今回の参議院選挙大敗をどう乗り越えるのか、はたまた巷の声に押されて退陣するのか。大変興味深く、日々のニュースから目が離せない。かつて社会党委員長の村山富一郎氏を首相に担ぎ上げ、難局を乗り越えた自民党。そのようなトリッキーな手立てが出ないものだろうか。朝青龍はどう乗り越えるのか。窮地に立った人間のそのときに真価が問われるのだろう。私の目の前の事例をじっくり見て、学びたい。

 藤沢周平の小説の下巻を読み終えた。主人公である紙問屋は、自ら一代で築いたものすべてを捨てて、心許せる人妻と連れ立って江戸を去る結果となった。小説の書評ではハッピーエンドに終わったとあったが、窮地に立った人間の悲しい結末であることには間違いない。本当の意味で窮地を抜け出すことはそう容易ではない。

 

 

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七 夕

窓(H19.8.8NO35

「七夕」

 麻の葉、籠目、青海波(せいがいは)、霰(あられ)蜀江の錦(しょっこうのにしき)、紗綾形(さやがた)、菊立湧(きくたてわき)、網代(あじろ)・・・・・。

 仙台七夕を何年ぶりに見たろう。地元にいながら10年以上足を運んでいない。今年は職場からの帰りがけにしばらくぶりに時間をかけて見た。印刷技術がずいぶん発展したのだろうか。冒頭に上げた日本の文様を印刷した和紙を7~8cmに切って吹流しにしたものが多く見られた。肌に触れる吹流しは少しごわついた感じがする。和紙特有のやさしい肌触りではないことが少々残念ではあった。

 金賞、銀賞と貼り付けられている竹飾りは、日本の文様を印刷された和紙を吹流しにしながらも、吹流しの一本一本に更に手の込んだ文様を貼り付け、しかもそれぞれの配色がとても粋なものであった。流石と唸りたくなるものは彩と手のかけ方に違いがあるのだ。

 一本の竹飾りに吹流しがいくつ取り付けてあるか数えてみた。3個、4個が多く、5個以上取り付けてあるものは数少なかった。まだ仙台の景気は回復していないのだろうか。印象として、経済に勢いがあった当時に比べ、お金を掛けきれないもどかしさを感じた。携帯電話会社、遊技場、大手居酒屋の店舗が仙台中央の商店街に増えている。空き店舗が増えているとは思えないが、店舗の変遷はかなりなものがあるのだろう。隣で見ていた妻が「ああ!大内屋は毎年がんばってるね」「このお茶屋さんはいつもすごいのだけど今年はどうしたんだろう」「仕掛けがすっかり姿を消したね」と10年ぶりの七夕見学の感想を語っている。いちいちなるほどの指摘である。

  七夕は秋の季語である。七夕が終わり、高校野球が始まると仙台は萩の季節になる。

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夕食づくり

窓(H19.7.30NO31

 「夕食づくり」

 夕方になると私が住む団地にも「とう~~~~ふ」「とう~~~~~ふ」とラッパを鳴らして豆腐屋さんが来る。実際は、軽自動車に付けた拡声器からテープに録音した音を流しているのだが。この音がすると私は、包丁を置き、ガスを消し、財布を手にしてあわてて玄関にダッシュする。

 妻が勤めに出ている関係で帰宅が7時前になる。6時前に帰宅できた私は、6時ころから夕食作りを始める。カレーライス、肉じゃが、野菜炒め、マーボ豆腐、焼き魚におひたし、そのときの冷蔵庫の中身で適当に食いたいものを作っていた。豆腐屋さんがくれば、かご豆腐を冷やっこにできるし、厚揚げもついでに買ってありあわせの野菜で煮付けることもできる。しかし、できる料理はそんな程度で、凝ったものはできない。

 そこで食材を毎日自宅まで届けてくれる業者にお願いして、その業者が立てた献立どおりにレシピを見ながら夕食を作ることにした。なかなか凝った料理もテーブルにのせることができるようになった。しかし、毎日毎日運んでくださる食材でレシピ通りに料理を作っていると、今日はあれが食いたいとか今日はやっと手に入れた辛口の日本酒に合う料理がほしいとか思ってもそうはいかない。決まったメニューを明日に延ばせば、明日は二日分の料理を作らなければならなくなる。

 そこで当分食材を届けていただくのを止めることにした。しかし止めてみると、私が適当に作ったカレーを二日間食べることになったりする。どうしても大量に作る癖は、母親譲りらしく、適量にならない。オニオンサラダの残りは次の日の味噌汁になるし、牛筋の煮込みは二日目に家族から嫌われて捨てる結果となる。こういうときは豆腐屋さんの「とう~~~~ふ」の声が救ってくれる。新鮮な豆腐があれば、冷やっこ、揚げ出し豆腐、油揚げと野菜の煮つけでことがすむ。妻に「素材は豆腐だけジャン!」などと苦情を言われても私は豆腐さえあれば満足だからだ。

ところが、「とう~~~~ふ!!」の声にあわてて玄関にダッシュしても豆腐屋さんがつかまらない。豆腐屋さんは軽自動車を時速30キロで走らせているからである。私の家の前をあっという間に通り過ぎてしまうのだ。100メートルも先に行ってしまう豆腐屋の車を恨みがましく眺めたことが何回もある。近くのスーパーにいつ作ったか分からない豆腐はあるにはあるのだけれど、豆腐はやはり新鮮でないとうまくない。もっとまじめに豆腐屋をやれよと走り去る豆腐屋の車に捨てぜりふを投げかけ、今日は冷凍物を油で揚げて終わりと決めてしまう。

 私の今の職場は午後7時前にやっと家にたどり着くほど遠くになった。妻と一緒の時間に帰宅する。今は妻にご指導をいただきながら何がしかの料理作りの手伝いをさせられている。妻に調味料の量を聞いた。妻曰く「適当~~~!」。今日もテキトウの料理をいただくこととするか。

 

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137段

窓(H19.7.23NO30

137段

  137段。私が帰路、地下鉄を降りてバス停まで上る階段の数である。一気に登るにはなかなかきついものがある。4月から毎日登るにつれ、そのきつさが変わってきた。はじめは途中で足の筋肉が痛んだり、息が切れたりした。しかし、4ヶ月間の通勤で今はさほどきつさを感じなくなった。往路帰路を合計すれば毎日250段は登ることになる。

  3月まで私は、自宅の玄関から車まで、車から校長室まで合計すると何歩歩いていたのだろう。せいぜい50歩ほどであったろう。教室を見回るときもゆっくり歩を進めていたし、階段登りもたいした段数ではない。それを5年間も継続した私の足は、すっかり階段登りを忘れてしまっていたようだ。私の足が目覚めたとき、137段は大きな壁であったはずである。その壁が今は小さな壁になっているように思う。

  壁といえば日本地図作成に取り組んだ伊能忠敬について書いた新聞のコラムを思い出す。彼は49歳で隠居し測量を学ぶために高橋至高に師事し、55歳で第一次測量に挑み、4月から10月にかけ奥州街道、蝦夷地を測量して実測図を作った。73歳の死まで第十次測量を成し遂げた。

 伊能忠敬は、3つの壁を乗り越えた。3つとは物理的な物の壁。制度的な仕組みの壁。意識という心の壁である。まず物の壁-資金、機材の確保。それはこれまでの蓄財と信用で調達。仕組みの壁-一農民が他藩の踏破。そこで「公儀のお声掛かり」との公認を得る。心の壁-観測を学ぶには高齢。だが何と20歳年下を師に研鑚した。そして第十次に及ぶ測量である。

 137段の階段に今日も挑むなどと意気込んでいる私の脇を高校生や若いサラリーマンが二段とびで私を追い抜いていく。彼らにとってこの階段は壁などと写っていない。そこで私は自分に「一丈のほり(堀)を・こへぬもの十丈・二十丈のほりを・こうべきか」・・・目の前の自分の壁に潔く挑戦するのみと自らを励ます(?)慰める(?)今日の帰路ではある。

 

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紫陽花

窓(H19.7.11NO28

「紫陽花」

私が勤務する社協事務所には多くの方々が出入りする。町内会を始め地区社協の方々が自分の団体への配布物を印刷するためである。あるスポーツ協会の会長もよく印刷の来られる方である。今日は紫陽花の花束を持って事務所に入ってこられた。「家に咲いたものをただ切ってきただけだから」とちょとはにかみながら紙包みを手渡してくださった。

 早速私の机と事務所の正面に花瓶に入れてかざった。紫陽花は二種類。赤紫色に染まった鞠のような一枝。小さな小さな青い花が30個ほど集まり、その一つ一つの花が黄色の冠を付けた長いおしべを立てている。そしてそれを取り囲むように6つの装飾花である大きな紫色の花。額紫陽花らしい一枝。殺風景だった事務所に安らぎの空間ができた。

 私は、ある新聞で子育てエッセイをつづる浜文子さんの文章を思い出した。浜さんは花束を依頼する時、花屋に必ず贈る相手の年齢や環境、そして花を贈る理由を伝える。時には花を贈った方から花束を嬉しそうに抱いた写真が送られてくることがある。すると浜さんは、必ず花屋さんにその写真を持っていくという。花屋さんは「毎日、数えきれない花を送っていても、それがどんなふうにその方に届くかは、私たちには分かりません。こうやって見せてもらえると張り合いが出ます。うれしい」と話しているという。

 浜さんは、「意識して人の心をつなぐ努力をしないと、忙しい現代の中で、人の心が分断されてしまう怖さを感じるのです」とエッセイに綴っていた。いちゃもん化社会というけれど人は心がつながれば自然に感謝の言葉が出てくるものなのだろう。何気ない一枚の写真から人と人の心を結ぶ浜さんの習慣に私は心を打たれた。

 白髪のスポーツ協会の会長さんのはにかみながら差し出してくれた紫陽花の花束。そして机に飾ってある紫陽花。写真を撮ろうかなとふと思い立った。

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椿の実

窓(H19.7.10NO27

 「椿の実」

 梅雨空にひときわつややかな葉をピンと張った椿が目の前にある。たしか赤と白の斑(まだら)の八重の花を咲かせていた。朝のいつもの私の一服の場所である。

 南向きに植えられているこの椿は幹の周囲が20cmぐらい、高さは1.7mといったところ。実り始めの柿のような実がなっている。数えてみると私が見える範囲で13~15個ある。全体では30個近くと思われる。直径3cmほどの大きさになったその実は、まだつぼみを守っていた“がく”を身につけている。まだ実を独り立ちさせるには早すぎるというのだろうか。

 花が落ちた直後から次の年の花芽をつける。その花芽を最初から守っているのが“がく”である。冬本番には“がく”は綿毛のような毛をまとい、つぼみを守る。つぼみが花となり、実となっても“がく”はその花と実を守っている。次の命をはぐくむ知恵はこれまで見事なのかと感じ入ってしまう。そして、この“がく”も実が大きく膨らんだら自然に落下し、その使命を終えるのだろう。その瞬間を見ることができたら大きな拍手を送ってやりたい。いったいその時期はいつなのだろう。

 “がく”を開くタイミングが早すぎれば、つぼみは寒さのため壊死し、遅すぎても気温の上昇で腐食する。いったい“がく”が自ら開こうとするのだろうか、つぼみの成長によって“がく”が内側から押し開かれるのだろうか。私は“がく”とつぼみの相互の関係のように思われる。<口へんに卒>啄(そつたく)という言葉がある。「<口へんに卒>」は鶏の卵がかえる時、殻の中で雛がつつく音。「啄」は母鶏(ははどり)が外から殻をつつく音。内からの生まれようとする力と外からの""の願いが一つになったときこそ、「誕生」の最大の好機なのだという。

 今「ひきこもり」や「切れる」など子どもにかかわる寒々しい情報が流れる。ある新聞の記事に臨床心理士・高塚雄介さんは「ひきこもり」「切れる」子どもの背景には心理的防衛力の欠如の問題がある。心理的防衛力とは葛藤処理能力とも呼び、人が直面する矛盾を乗り越える力である」と書いていた。また高塚さんは、この力がないのに自立や自己決定を強いられるため、子どもは行き場を失い「ひきこもり」「切れる」という。そして過保護型、過干渉型、放任型による偏りのある親子関係が、子どもの心のゆがみを生んでいるのではないかと問題を提示していた。

 少子化が大きな社会問題となっている昨今、親は、いきおい過保護・過干渉になり、必要以上に手をかけ、子どもの自立を妨げるケースも目につく。

 椿の小さな実は、私たち人間に子孫を大切にする知恵を示唆しているように思えた。

 

 

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国歌斉唱

窓(H19.7.7NO26

「国歌斉唱」

 民生委員制度創設90周年記念全国民生委員児童委員大会が東京・日本武道館を会場として催された。始めに天皇皇后両陛下臨席のもと式典が行われた。

 平均年齢が70歳代の方々の集った大会である。戦中に小学生、中学生だった方々である。その方々は敗戦という途端の苦しみの中に投げ出され、青春を世の中の混乱の中で過ごさざるを得なかった。

 式典の冒頭、国歌を斉唱した。

私は35年間小学校教員であった。毎年最低2回は国歌を斉唱してきた。若い頃の職員会議では、年に1回国歌について日教組の組合員がためにする論議を仕掛けるのが常であった。その論議が不毛であることを身をもって体験してきた。しかし、現在でも学校という場では国歌斉唱が誇りを持って行われているとは言い難い。そんな経験を持つ私は、この大会で、しかも天皇皇后を目の前にしてどのように国歌斉唱が行われるのか大変興味を持った。

 一人ひとりの声は大きくもなく、小さくもなく、それでいてしっかりと歌っていたという印象を持った。私はある種の感慨を持ってその歌声を聴いていた。お一人お一人はどんな思いで苦労多き若い時代をすごしたのか、その苦労が国家の国民に対する裏切り行為に起因することをどう捕らえてきたのか、今国歌を歌うお一人お一人にどんなことが胸に去来しているのだろうか。今国歌を歌う5000名以上の方々。この方々は一人の人間としてただ前を向いて生活のため生きてこなければならなかった。暴力で政治体制を変えても幸福にならないことも知っていた。ただ夢中で戦後の繁栄を支えてきた。その中で培ってきた分別や良識が大きくもなく小さくもない歌声となっているのだろう。

 国歌斉唱後に天皇のあいさつがあった。天皇は民生委員の創設の歴史に触れ、これからますます重要となる民生委員制度に期待を寄せると語った。天皇は時折原稿から目を上げ、しかもご自分の文章ではないかと思わせる内容を自分の言葉にして語った。

 両陛下が退場する際、皇后が会場全体に手を振った。大きな拍手が沸いた。皇后に向けて手を振り返す女性参加者も数多くいた。しかし、ハンカチで目頭を押さえる人や立ち上がる人はひとりもいなかった。冷静といえば冷静、落ち着いているといえば落ち着いている見送りであった。これが小中学校で天皇崇拝を教育され、戦後は民主主義を教えられてきた方々の分別と良識なのだろう。

 ここに参加した5000名の民生委員児童委員は身をもって価値観の大転換を経験してきた。もう簡単にはだまされることもない、もう簡単に崇拝したり批判したりもしない。そして、次の時代をリードする人々を選択する物差しは、自ずと感覚として持っている。そんな冷静な分別と良識を感じた式典の40分であった。

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分  別

窓(H19.7.7NO25

 分別

 

「分別」という言葉がある。

 60歳代4名、70歳代6名、67歳が最年少、77歳を最年長として10名の方々の引率のお手伝いをした。仙台駅から新幹線とバスを使って5000名以上が集まるという東京・日本武道館まで行く。出発前は、10名の方々の一人でも一行からはぐれることを最も心配した。老人にありがちな自分の都合優先の行動も心配の一つだった。仙台駅集合時に忘れ物はないか、気温はどうか、水分補給は、トイレ休憩は、途中体調の変化があった時は、東京駅でのバス乗り換え時や武道館の人ごみの中で、集団からはぐれてしまうのではないかなどなど。しかしである。旅行業者の付かない道程にかかわらず整然と会場に到着し、全員が落ち着いて着席した。

 私が引率したこの方々は、日ごろ自分の地区内の人々に心を配る民生委員の方々である。さまざまな事情を抱えている地域の方々に耳と心を傾けたり、遠くから見守ったり、相手の気持ちを大切にし、しかも相手の自立を根本に置いた助言を行っている方々である。どんなに一人ひとりに配慮しても必ず心無い非難の矢が飛んでくる立場でもある。地域の人々の幸せを願う慈悲と非難や批判を懐に深く受け止める受容の心がなくてはできない奉仕の仕事である。10名の方々は、その仕事を5年10年と経験してきた。そして今も民生委員の現役であり、地区民生委員のリーダーである。

 この10名の方々に比べれば私なぞまだ小僧である。しかし、その小僧の説明や指示を受け止め、整然と行動する。時には私に「ご苦労様、大変だね。お世話をかけるね」と声をかけることも忘れない。

 私には分別というのはこういうことだと感じさせられた一日ではあった。

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あじさい

窓(H19.7.3 )NO24

あぢさゐ

 

6月の平均気温はいつもの年より2度程度高いと聞く。雨の日もずいぶんと少ない。しかし、一昨日、梅雨時にふさわしい雨が降った。事務所に戻ってきた職員が、携帯電話のカメラで撮影して来た。「あまりにも美しかったので、つい撮っちゃった」と見せてくれたのは雨にぬれ青々と群れて咲く紫陽花である。

 紫陽花は日本原産である。シーボルトがこの花に「オタクサ」と名前を付けたことは有名である。彼の日本での愛妾「お滝さん」の名を潜ませたと非難したのは植物学者の牧野富太郎である。

 小学校2年生の国語の教科書だったろうか。「あじさい」という詩があった。紫陽花の花を「まり」と表現し、雨の重みで時々揺れる様をよんでいた。児童はその詠われている様子を心に思い描きながら、いつもよりゆったりとやや小さめの声で音読をし、暗誦して共にその情緒を楽しんだことがある。

 青年に「紫陽花談義」をさせるとこうなるのだろう。「どんなに雨が降っても、かえって美しい花を咲かせる」「耐寒性が強く、北海道から沖縄までどこでも栽培できるらしいね。土を選ばずに生長する」「一つの色に安住せず、次々と色彩革命していくところもいい」「一つ一つの小さな花が集まって大きな花毬となっている」何かをなそうとする意気がある青年たちは情緒だけではなく、人の生き方まで花の姿から感じ取る。

 正岡子規は「紫陽花やはなだにかはるきのふけふ」と詠った。

 定年を迎えた私は、「あぢさゐの真水の如き色つらね」(高木晴子)という句がお気に入りである。その色の深さが心に染み渡る。

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願兼於業(がんけんおごう)

窓(H19.7.2NO23

願兼於業(がんけんおごう)

 「重い障害を担って懸命に生きる人たちは人生の教師である」とは、京都太陽の園常務理事の徳川輝尚さんの文の一説である。徳川さんがこの文の中で脳性まひによる重い障害のため寝たきり生活のK子さんを紹介している。K子さんは母が死の床にいても娘として何もできない。K子さんの詩に、「母にいっぱいの水も飲ませることができない。このときほどこの荷物(障害)が重くのしかかったことは無い」・・・・「それでもこの荷物は私にしか背負うことのできない大切な荷物なのだ。この荷物のおかげで心の悦びと平和とを知ることができた。感謝しよう」

 感謝という境地まで至ったK子さんの心の変化は紹介されていない。しかし、自らの宿命に立ち向かう勇気がK子さんにあったことだけは想像に難くない。

「だれしも宿命はある。しかし、宿命を真っ正面から見据えて、その本質の意味に立ち返れば、いかなる宿命も自身の人生を深めるためのものである。そして宿命を戦う自分の姿が、万人の人生の鏡となっていく。すなわち、宿命を使命に変えた場合、その宿命は、悪から善へと役割を大きく変えていくことになる。全てが、自分自身の使命であると受け止めて、前進し抜く人が、宿命転換のゴールへとむかっていくことができるのです」とは私の人生の師の指導である。

 「宿命を使命に変える」という姿勢は、仏法で「願兼於業(がんけんおごう)」という。「願(ねがい)、業を兼(か)ぬ」と読む。自ら願って今の立場に生まれ、自ら願ってこの悩みを目の前にしているのだ。だからこの悩みを使命と受け止め、解決しようと懸命に生きようと考えれば、他人のせいにする恨みがましい被害者意識は消え、自ら主体的に生きていくことができる。きっとK子さんはそのような考えに至ったのだろう。だからこそ徳川氏をして「人生の教師」と言わせしめたのだろう。

 「人生に起きたことには必ず意味がある。また、意味を見いだし、見つけていく」「悩みがないのが幸福なのではない。自身に具わる生命力で、どんな悩みも乗り越えられると心を決める。それが自身の幸福への力なのだ」とは、学生時代に先輩が真剣に私に指導してくれたことだ。K子さんの詩は私の原点を思い出させてくれた。

 

 

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自分の軌跡

窓(H19.7.2 )NO21

「自分の軌跡」

 私が母と町を歩いていると、「乞食」に出会った。戦後間もないときである。家を失った方や傷痍軍人風の方がたくさん町を徘徊していた。私は「あ!乞食だ」といって指差した。すると繋いでいた手を急に離した母がしゃがみこんだ。私の目をじっと見て「何かのわけがあって今あのような姿をしているのです。その人の悲しみも分からず見た目で、しかも指まで指して『乞食』と言うのはとても人としていけないことです。二度とそのようのことをしてはいけません」いつに無い厳しい顔の母を今でも忘れられない。

 「見た目で人をさげすむことは人として恥ずかしいこと」「弱い立場の人にはとりわけ温かい心で接すること」「共同募金には自分のお小遣いで必ず募金すること」「学校で困っている人を見つけたら応援すること」そして「近所の人には帽子を取って必ず大きな声で挨拶をすること」「先生の目を見て話を聞くこと」などなど一つ一つ母は私の前にしゃがんでは私の目をじっと見て話した。その光景一つ一つが今でも目に浮かぶ。

 学生時代は、社会体制変革を叫ぶ学生運動家ばかりがいた。私はそれに同意できなかった。私は「病人と貧乏人しかいない」と馬鹿にされた宗教団体で夢中になって活動した。そこで私は人生の師と出合った。

 社会に出てから中学校の同窓会があった。懇親会の間中私のそばに居続けた一人の女性がいた。中学校時代特に親しくしていたわけでもない。会が終わるころその人がこんな話をした。「あなたは、私の片足が悪くてびっこを引いている私を級友が冷やかしたとき、顔を真っ赤にして『それは人としてやってはいけない』と真剣に話した。その時のことが忘れられない」と話していた。

 小学校の校長になったとき私が一番の方針として出したことは、「健康な人が少し我慢すれは、障害を持っている人が幸せになるというなら、ちょっと我慢をすること」であった。色素性乾皮症の児童が二名入学するということを知って出した方針である。色素性乾皮症の児童は体育館の白熱灯のライトでもやけどをする。体育館の照明を付けないで入学式を行うことにした。職員からは多くの児童の晴れの入学式をたった二人の児童のために薄暗いところで行うことは疑問であるとの声があった。今度着任した校長である私の方針をご了承くださいと話し、理解をしてもらった。

 学校に来られずに自宅に篭ってしまう児童もいた。保護者の苦しみは尋常ではない。保護者から「親の会」立ち上げの要請を受けた。理解ある教頭が早速立ち上げた。教室に入れない児童の指導を専門にする教員は学校に配当されていない。養護教諭資格を取れる課程を持つ大学に依頼し、学生ボランティアを派遣してもらった。担任と学生ボランティアの努力もあってその児童たちが学級に入れるようになった。

 私は小学校を退職することになった。先輩校長から社会福祉協議会に再就職してはどうかと声が掛かった。今、社会福祉協議会にいる。なぜ私が社会福祉協議会にいるのかこの3ヶ月自問した。そして、今、自分には一つに連続する軌跡を歩んでいるように思える。

 ところで、私が小学校1年生のとき、母の教えよろしくじっと先生の目を見て話を聞いていた。すると先生は「先生の目を見て話を聞いている人いるけど、話を聞くときは、先生の喉の辺りを見て聞くのがいいのよ」と私をチラッと見ながら指導した。母のしつけも社会ではもう一ひねりしなくては?とか、僕の視線が嫌な人もいるんだ?僕の目つきがよほど悪いのかとか・・・。小学校1年生にして考えたことも思い出ではある。

 

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ミュール

窓(H19.6.26 )NO20

ミュール

  地下鉄に乗ろうと階段を下りる。後ろから「コーン コーン」「カーン カーン」と大きく高い音が地下の空間に響き渡る。若い女性が履いているミュールの踵の音である。ハイヒールはこのような音は出ない。特別の金属でもそこに打ち込んであるのだろうか。

 その音は私にとって特に不快なわけでもない。しかし、その音の大きさは驚くほどである。履いている若い女性は気にも留めない風であるが、実際は音を楽しんでいるようにも思える。そうでなければ歩き方に躊躇が感じられてもいいはずである。若い女性は堂々とその音と一緒に歩んでくる。

  私は学校の教師になりたてのころ、山間部にある小学校に勤務していた。教員独身寮は学校の裏山にあり、8人ほどの小中学校の教師が生活していた。そこから学校まではコンクリートで固めた細い道があった。私は腰にタオルを下げ、下駄を履いて学校までの道を歩いた。当然下駄を鳴らしてである。春の道で鳴る下駄の音が、近くの緑濃い山にこだまする。新米教師の私は、日々慌しく仕事をしていた。児童が目を輝かせる授業ができず悶々ともしていた。しかし、毎朝、下駄を鳴らして周りの山々に響かせる瞬間は自分を取り戻せるような気がして大好きな時間であった。ある日の朝、「教頭先生が呼んでいます」と声が掛かった。教頭先生から「教師が下駄をはいて出勤とはだらしない。すぐやめなさい」とのことであった。その言葉に私は驚くと共に下駄を鳴らして歩く若者文化を理解できない頭の教頭先生をさげすんだ。あまりのばかばかしさに抵抗する気にもなれなかった。しかし、いつの時からか私は革靴を履いて出勤するようになっていた。

  ミュールの音が聞こえなくなるのはいつのことだろう。いつまでもミュールの靴音と共に誇り高く堂々と歩く若い女性がいてほしい。

 

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メントール

窓(H19.6.26 )NO19

「メントール」

  朝出勤する交通機関バスと地下鉄。それを降りて勤務先の事務所近くにやっとたどり着く。その時の最大の寛ぎは地下鉄入り口の公園の桂の木を見ながら一服することだ。桂はハート型した若葉が雨をたっぷりと吸って大分大きくなってきた。

 じっと見ているとどの枝の先端もふたまたに分かれて伸びている。他の木々は三又に分かれて伸びたり、枝の途中から直角に天に伸びたりする枝もある。しかし、桂は常に枝の先端からふたまたに分かれて伸びる。まるで枝の先端から双子が生まれるような具合だ。

 私が吸っているタバコはメントールが含まれているものだ。ハッカのスーッとする香りの成分を「メントール」という。このメントールを生み出す研究の基礎を築いたのが2001年にノーベル化学賞を受賞した野依(のより)良治名古屋大学教授である。組成は同じだが、分子の結びつき方が、鏡に映したように対称的な二つの種類。まさに右手と左手の関係。ハッカの独特な香りは、その一方にしかない。もう一方はほこりっぽく、消毒薬くさい。野依教授の研究は、鏡に映したように対称的な形を持つ化合物の作り分けを可能にした。実は、作り分けは不可能と言われ続けていた。野依教授は「74年にスタートして6年かかった長丁場、みんなあきれてましたね」(ネイチャー インターフェイス・・・ノーベル賞受賞記念インタビューより)と粘り強い研究を振り返っておられた。野依教授の少年時代は、野山をかけまわるガキ大将。山の中を探検したり、川で泳いだり、チャンバラごっこをしたり。遊び仲間からは「ノブタ」というあだ名を付けられた。野依少年は湯川博士がノーベル賞を受賞するというニュースを耳にする。その時、湯川博士と科学への強烈なあこがれが胸に刻まれたという。

 今朝の一服は封を切ったばかりの箱から出した一本である。メントールの刺戟がなおさら心地よい。

 

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いちゃもん化社会と言うけれど

窓(H19.6.14 )NO18

「いちゃもん化社会と言うけれど」

 6月12日の朝日新聞天声人語は、理不尽な物言いが看護・介護を含むサービス業の世界にも広がっている様子を「いちゃもん化社会」と呼ぶ学者がいると紹介している。

 私が小学校の校長職にあるとき、さまざまな苦情をいただいた経験がある。苦情を聞き取っているときは、「そう考えることは、あなたやあなたのご家族、そしてお子さんの幸福に決してつながりませんよ」と思いながらじっと耳を傾けた経験がある。苦情を言う方が帰った後、改めてその苦情を思い浮かべると「そのような苦情を言わざるを得ないほど、苦しんでいるのだな。何とか応援できる手立ては無いものか」と冷静になることが多かった。

 「いちゃもん」と捉えればその「いちゃもん」をただ耐えて聞くことになる。自校改革のチャンス、自己改革のチャンスと考えるよう、自分の気持ちを立て直さなければ、ただ辛いだけである。「どうしてやろうか!」との怒声を出さず、苦情を言う保護者の心の苦しさを思って「どう支えようか」と自分の口に出して言ってみることにしていた。担任の先生を学年主任中心に学年の教師で支えている姿が、保護者を「どう支えるか」との校長の姿勢を後押ししてくれていた。

 私が現に勤務する社会福祉協議会は権利擁護センターの役割も担っている。認知症高齢者、知的、精神障害者などで判断能力が十分でない方が、地域で福祉サービスを適切に利用し、自立した生活を送れるようお手伝いする仕事である。支援員や専門員が担当する。しかし、理不尽な申し出や行動に悩まされる日々が続く。事務所に帰ってくる担当者の顔に疲労の色が浮かんでいる。そのような方々を支援する活動について勉強もし、訓練も受けている専門員ではあっても、時には辛い思いをしている。このような仕事を「肉体労働」「頭脳労働」に対して、「感情労働」と言うらしい。

 かつては、助言を受ければ、「それはこれこれの理由がある」と受け止めようとしない自分。提言を受ければ、「それは今やろうとしていたところ」と自己弁護する自分。文章の書き方を二度も指導をされると、「最初の段階でしっかり見ておいてほしい」と指導する人の行為をあげつらって自己のプライドが傷つくことを嫌がっていた自分がいた。言わばいちゃもんをつけて反発していた。しかし、成長できない自分を幾度か振り返ると素直に指導を受けとめられるようになる。一時は反発という感情に支配されることがあるかもしれない。「いちゃもん」をつける素直でないやつと先輩は私を見捨てなかった。先輩が根気よく指導してくれた。これからの成長に期待し続ければ、きっと人材に成長すると信じてくれていた。

 「いちゃもん化」と評論家ぶらないで、忍耐強かった先輩のように日々ありたいものだ。

 

 

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公園デビュー

窓(H19.6.11 )NO16

「公園デビュー」

 今日はお父さんの会社が休みなのだろうか。2歳ほどの女の子と公園の砂場で一緒に遊んでいる。帽子をちょこんとかぶった裸足の女の子は持参したバケツとジョーロを手に水のみ場に水を入れに行く。お父さんが後に続く。砂場に誰もいなくなったとき、お母さんの自転車に乗せられて黄色地に赤い花柄のシャツを着たこれも2歳ほどの女の子が到着した。花柄のシャツの女の子は、砂場に置かれている裸足の女の子のプラスチック製の水色の熊手を早速見つけ、走りよった。

 「のーんの!(女の子の愛称らしい)ダメ!」ベンチに座っているお母さんの声が飛ぶ、しかし、遊び道具の魅力には勝てない。置いてあった熊手で砂を掘り始めた。そこに裸足の女の子とお父さんがバケツとジョーロに水を汲んで帰ってきた。「一緒に遊ぼう!」と裸足の女の子。花柄シャツの女の子がまずはじめたことは、作ってあった砂の山を踏み潰すことである。お母さんの声が飛ぶ。「のーの!ダメでしょ!」2~3メートル下がって二人の女の子の様子を見ていたお父さんが「貸してあげなさい」と可愛い熊手や柄杓、スコップを指差した。

 しばらくバケツをはさんで座った二人。水の入ったバケツに砂を入れたり、水をかき回したり、無言だがそれぞれ手にした道具で遊びに夢中になる。そのうち私が期待していたことが起こった。道具の取り合いである。さあ!二人の親はどう反応するのだろうか。お父さんは動かない。動けないといったほうが良いかもしれない。お母さんはゆっくりと二人に近づく。なにやら話しかけるが、急に二人の女の子が水のみ場に走り出した。どうやらバケツの水の交換らしい。花柄シャツの女の子が蛇口を開けようとしたが開かない。お母さんが少し蛇口をひねってやる。

 子育て関連のホームページに「子供同士がものの取りあいなどでけんかを始めても、大人が介入しない。子供同士の解決を待つ、見守るをルールとしている」とあった。これも一つのルールである。なにを子どもに注意をするか、または何を取り上げて誉めてあげるか、二人の女の子の親が自らのうちにルールを作っていくことも大切なのだろう。

 裸足の女の子のお父さんと花柄シャツの女の子のお母さんは、まだ一度も会話が無い。きっと始めて出会ったのだろう。二人の女の子はもうすっかりうちとけている。公園デビューとは、子どもの社会性育成という親のデビューのことだ。人とのかかわりかたを親自身が自己に問いかける機会だ。

 二人の親がうちとけ、会話を交わすまでにはもう少し時間がかかりそうだと思いながら、お昼の休憩時間終了間際の私は事務所に向かった。

 

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鴻  鵠

窓(H19.6.9 )NO15

鴻  鵠

 朝は濃霧、昼は夏を思わせる湿度高い暑さ、夕刻は雷雨。入梅前、一日の天気はめまぐるしく変化する。

 昼休みに事務所近くの児童公園のベンチに座っていた。公園中央に円形の植え込み花壇がある。中央に2メートルほどの常緑樹が植えてある。その木の根元に3羽のすずめが戯れていた。眺めていると時々すずめがふと消える。1羽だけ消えるときもあるし、2羽同時に瞬時に姿が見えなくなる。どうやらすり鉢状に掘った砂浴び場があるらしい。ベンチに座っている目線からは瞬間に消えたように見えるわけである。

 3羽のすずめがその砂浴び場をめぐって意地悪をし合っている。とうとう喧嘩になって3羽とも飛び去っていった。これ幸いと私は砂浴び場を見に行った。すり鉢状に掘られた穴が合計6つ。いや数日前に使ったらしいものも含めると10箇所以上直径2メートルの円形の花壇に作られている。すり鉢はやや楕円で最小の直径が15センチメートル、大きいもので20センチメートルある。深さは5~7センチメートルというところだ。近くによって砂浴び場を観察していると何やら視線を感じた。3羽のすずめが電線に止まって私を観察している。これは失礼と早々にその場を立ち去った。

 すずめといえば、すぐ思い出すのが「燕雀(えんじゃく)安(いずく)んぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや」である。すずめも馬鹿にされたものだが、自分の縄張りに闖(ちん)入してきた人間を上から眺めているなどなかなかである。大物ぶってこの言葉を使うのも一時いいが、この言葉を吐いたという陳渉にしたとて自軍の兵は燕雀といわれた雇われ農民である。兵があって戦えたのだから燕雀こそ大事にされなければならないだろう。

 一番苦労している人を最大に大切にしろとはわが師が常に指導してくださる言葉である。そうしなければ、どんなに風呂敷を広げてもその風呂敷を包めなくなる。門前雀羅(じゃくら)となることは世の中の常である。コムスンがニュースで話題になっている。一番大切にしなければならない要援護者を人間と見なかったコムスン経営者が必然にもたらした結果である。

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声かけ名人に

窓(H19.6.8 )NO14

「声かけ名人に」

 4月31日深夜12時。勤務した校舎を見ながら退職の瞬間を迎えた。「ごくろうさまでした」の声々。声を掛けてくれた職員や保護者は私を笑顔で囲んでくれている。ありがたい。私は校長として懸命に努力できたのかとの悔恨の念ばかりが浮かんできた。校長の先輩から過日電話があった。「○○花火大会に行くか?」と声を掛けてくれた。勿論喜んで参加を希望した。ありがたい。後輩と先輩。自分の周りの方々の声の輪。私の宝である。

 「孤独であるかぎり、彼は善人でも悪人でもない。つまり、彼はわれわれにとって無なのである」とは哲人ボルテールの言である。自分から話しかけなければ、善をなすどころか、生の証しを示すこともできないということなのだろう。

 ドン・キホーテが行く先々で起こす破天荒な出来事の多くは、出会った人々に声をかけるところから始まる。そして世の不正を正し、虐げられた人々を助けようとする。私は「声がけ名人」にもう一度挑戦しなければならないと思う。善き友を持ち、善き友によって困難を乗り越えることができる。よき友は未来を開く存在なのだと退職した今、実感は深い。

今、私は社会福祉協議会に勤務している。事務所に来る解答困難な電話の数々。職員の疲労の顔。福祉の分野は大きく動いている。職員にどう声を掛けるか、もうひとふんばりである。いつも好奇心を持って周囲を観察することは声かけ名人の秘訣の一つという。周りをしっかり見ることは自分のブログの原稿を書くことだと決め、パソコンにむかっている。(校長会報の退職校長寄稿として)

 

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本質の問題は?どっち!

窓(H19.6.7 )NO13

「本質の問題は?どっち!」

  イラク戦争で息子を亡くして以来、反戦活動家として行動してきた米国のシンディ・シーハン(Cindy Sheehan)さんが5月29日に活動から引退宣言した。彼女はブログで「人々が理由もなく死んでいく問題は、“右か左か”の問題でなく、“正しいか間違っているか”の問題だ」と書いている。

 校長職にある時は、シーハンさんのように相手に理解を得られないばかりか、相手が問題の本質を違って捉えていることにしばしば遭遇する。このとき最も心にかかるのが、担任の先生方が精神的に消耗してしまうのではないかということである。彼女は挫折ではない、万策尽きる前に・・・として引退した。しかし、校長は・・・引退できない。何が何でも道を切り開かなければ担任の先生が浮かばれない。それは何よりも職員の心を大切にすることからしか解決策を見出せない。

 今、私は社会福祉協議会に勤務している。職員の疲労の顔。苦労の多い仕事。福祉の分野は大きく動いている。問題の本質を正確に把握できるようにするそれが今の私の課題だ。

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窓(H19.6.5NO2

「桂」

  地下鉄を下りて階段を上る。自宅から勤務する事務所近くの地下鉄駅の到着するまで約50分。階段を上ると一休みできる格好の石のベンチがある。私は毎日そこで一服する。ベンチの後ろには4~5mの桂の木が植えてある。桂は梅雨間近のどんよりとした空に向かって堂々としている。

  桂は丈夫であり、古くから材は建築・家具や碁盤・将棋盤などに利用されている。また葉がハートの形でもあり、よく記念植樹される木である。葉のつき方が太陽の光を精一杯受けようと空に向かって葉を広げる木々とはちょっと違う。一本の枝に連凧のように連なって横向きに葉が並ぶ。いわゆる対生である。4~5月の若葉が特に美しい。枝の先端についているごく若い葉は赤ちゃんのように赤みがかっている。

  桂という漢字がついている植物に月桂樹がある。月桂樹の葉で作った冠が月桂冠である。その道で最も優れた業績を上げた者の頭上に載せられる。スポーツでも芸術でも同様である。桂冠詩人と呼ばれる人がいる。世界平和を目指す詩人の連帯「世界詩歌協会」が認定している。桂冠詩人の由来は古代ギリシャローマ時代に詩人達が詩作を競い、その優秀な詩の勝者に対して月桂冠を送った故事から来ている。桂冠詩人では14世紀イタリア詩人ペトラルカローマ元老院から与えられたのが有名である。(はてなダイアリーhttp://d.hatena.ne.jp/ より)

 デンマークの桂冠詩人、故エスター・グレース博士は、「人生とは、光と闇、善と悪との戦いです。私は『詩心』をもって、平和のために戦います」と語っている。闇や悪との闘争の中で人格が磨かれ、心は鍛えられるのだとの意味であろう。

  私は桂を見ながら朝のひと時を過ごした。社会福祉は地味な仕事である。心がなくてはどんな事業も展開できない。私は桂の木に背中を押されて今日も事務所に向かう。

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バスを降りるとき

窓(H19.6.4NO1

「バスを降りるとき」

  「ありがとうございました」20代前半と思われる女性たちがバスを降車する際に運転手に掛ける言葉である。一瞬、車内が和む。私の自宅近くのバス停8箇所で耳にする光景である。約50分かかる乗車時間でそのような光景は、この8箇所しかない。最初、何と気立てのよい娘さんかと思っていたが、一人の女性に限らない、次に下りる若い女性も女子高校生も同じにように声を掛けている。

 今春からバスで通勤するようになった私にはどうしてそのようなことが自然になされるか不思議であった。数日自宅に近づくバスの中で観察を始めた。私が乗るバスには20代前半の男性は一人も乗っていない。ほとんどが女性客であり、会社帰りの方々である。バスを降りるときバスカードを機械に通す。機械を通ったカードを引き抜きながら「ありがとうございました」と声を掛ける。運転手の反応はそれぞれである。ほとんどがきょとんとした表情になるが、その後、横顔が笑みになる。

どうして一定区間に降車する方々だけが自然に運転手に声を掛けるのだろう。

私はバスを利用することはほとんど無かったが、年に数回、地元の小学生が下校する時刻にバスに乗ることがあった。小学生が登下校にバスを使用する地区である。10数年前、学校の指導方針らしく小学生が元気な声で頭をぺこりと下げながらバスの運転手さんに「ありがとうございました」と声を掛け始めるようになった。また、横断歩道手前で車を止め小学生を横断させると、横断し終わった体をくるりと反転させ深々と礼をすることも始まった。何もそこまで・・・わざとらしい・・・・と思ったことがある。バスの乗り方を親として指導したことも無い人間に限ってそのような無責任な反感を持つものである。現在もこの小学校の指導方針は当時ほどではないが継続されている。

 バスの運転手に感謝の言葉を掛けて降車する女性が、小学生時代に指導を受け、10数年後の今、車内に和やかな風をそっと吹かせている。私は指導されたことがこのような結果を生んでいることに驚いている。交通機関を利用するときも、買い物をするときも、無言ですむ時代である。声を出すことが面倒だったり、ダサイ行為だったりする時代である。私はバス通勤2ヶ月となった。この頃私も運転手さんに「ありがとうございました」と声を掛ける毎日になっている。

 

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生き残れるのか

窓(H19.4.13)NO

「生き残れるのか」

 

「生き残れるのか」・・・・。私が受けた研修資料の小タイトルである。講義をしている方は社協の中核中の中核で、最も働き盛りの年齢だ。少々ゴマ塩の髪になっているが温厚で、品のある方である。その方が「生き残れるのか」、「主体性の確立こそ今求められることである」と改革へのビジョンを穏やかな声で語る。決して声高に危機感を煽って研修を受けている人に焦燥感を与えたりはしない。だからこそ、なおさらその真剣さと情熱が伝わってくる。

 

市社協予算は、独立法人でありながら収入の約70%が市の補助金と委託金によって組まれている。「今後社協が目指すべき方向性は、行政の下請けから脱皮し、地域福祉の推進役として市と対等の関係」であると主張する。

 

市社協の改革の背景として、社協の現状が「多様な福祉主体の出現により、NPOや営利企業の中で社協が埋没傾向にあること」「市民にとって、社協の業務が極めて幅広いため、分かりにくい存在あること」などをあげた。また同時に社会福祉協議会の幹部職員は、会長以下常任理事や事務局長など市から派遣された職員であり、区事務所長は定年後の嘱託職員である。これは市からの委託事業がほとんどであるためやむをえない人事措置でもあるが、現状を改革するためにはこれでいいのかと、自らが市派遣職員であっても真摯に課題として言及する。そして「幹部職員の見直し」ためには、「プロパー職員の育成を急ぐ必要がある」と講義を続けた。

 

最後に従来の活動の繰り返しや前例主義を廃止し、以前なぜそうしたのかを検証し、今後はこうすべきだと提案する職員でなければ、社協の未来はないと締めくくった。

 

講義を聞いていて胸が熱くなった。講義をしてくれた方は、市役所にいずれは戻る市職員である。しかし語っている姿は身の安泰を保障された役人ではなかった。自ら先頭に立って市社協を改革しようとの誠実な姿であった。しばらくぶりにこのようなさわやかな講義を聞いた。

 

私は定年後に区事務所長となった身である。真剣に仕事をしている事務所の職員の邪魔にはなるまい。少しは経験を生かして職員の苦労を分かち合えればと甘い考えであった。この講義を聞いて、新たな職場の真摯な改革姿勢に大いに感動し、力になりたいとつくづく感じさせられた。

 

今日も事務所の現場では、大声で市の福祉制度不備を言い立てる方に誠実に対応している職員がいる。認知症などで判断能力が十分でない方のために金銭管理サービスしている職員二人が事務所を飛び出し、支援に向かった。一人は民生委員やボランティアにかかわるかたがたの相談に耳を傾けている。そして「はい、区社会福祉事務所です!!」と明るく電話を取る職員がいる。現場は、改革のビジョンを横目で見ながら日々の対応に真剣である。

 

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災害ボランティア

窓(H19.4.4NO

 

「災害ボランティア」

 

能登半島地震による被害者に対する救援はいまだ続いている。被災者には老齢の方が多い。ボランティアの活動も活発に行われているという。

 

私たち宮城県民は、早晩発生が予測されている宮城県沖地震に心のどこかで不安を持っている。今年度

仙台市

の総合防災訓練は、

太白区

を重点訓練地区とし、

仙台市

立生出小学校をメイン会場に行われる。当社会福祉協議会は、災害ボランティアにかかわる業務を担当するため、当日小学校にテントを設置し災害ボランティアにかかわる一部業務の訓練を行う。

阪神・淡路大震災の時、ボランティア活動を高く評価されたのが、神戸商船大学の寮生たちの救援活動だった。その寮生は「自律した小単位の組織」というにふさわしいものだったという。数人の乗組員で航海することが多い商船。そのため、商船大学の寮生たちは、部屋別に、数人でなんでもできるよう、毎日訓練している。だから指示なしで機敏に動けた。被災地にボランティアに入ったなかで、なかなか効果的に動けなかったのは、規模の大きな会社や団体などに属している社員やメンバーだった。日ごろの習慣で「上からの指示待ち」の態度が目に付いたという。また、いつもの癖で、同じ方向に多人数で動いてしまい、混乱が生じたという。

 

石川県県民ボランティアセンターのHPには「災害時のボランティア支援マニュアル」が掲載されている。それによると「ボランティアの助けは有難いが、毎日毎日の対応に追われて、休むことができない。もうボランティアは来なくていい」ということになりかねないと注意がなされている。 

 

今まで

仙台市

や宮城県社会福祉協議会で積み上げてきた各種マニュアルを活用し、また島根県沖ロシア船籍タンカーナホトカ号重油流出そして阪神・淡路大震災や能登半島地震における災害ボランティアにかかわる事例を参考にしていきたい。ともあれ災害時にこそ当区社協が進めてきた「福祉の街づくり」を基盤に地域住民の互いに助け合う心をもって立ち向かうことではないだろうか。

 

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対話とは傾聴

窓(H19.4.4NO1

 

「対話とは傾聴」

 

 当社会福祉協議会事務所には毎日たくさんの電話が入る。所員がすばやく電話を取る。受け答え方が実にさわやかである。丁寧な対応は電話をかけてきた人に安心感を与える。「生活福祉資金を借りたいが・・・」「ボランティアをしたいが自分を必要としている人はいないか」「怪我をしたので、車椅子を借りたいが・・・」等など、内容は多岐に渡る。

 

その中で、「自分が得意としている手品を使ったボランティアをしたい。しかし自分が高齢のためになかなか思うようにボランティアができない。そこでこの手品の技術を次の世代のボランティアに伝えたい」とのことであった。自分の得意分野を生かして多くの人に感動や笑いを提供することは地域福祉の中でもなかなかない。是非後輩を育てていただきたい。残念ながら

仙台市

以外での活動を目指しておられるため、みやぎボランティアセンターを紹介した。

 

ボランティアといえば、こんな新聞のコラムを思い出した。

「市立四日市病院である婦人がボランティア・グループを立ち上げ、院内の案内、車椅子の患者の送迎などを手伝っていた。ボランティアのメンバーが来院者の話に耳を傾け、生まれたのが初診受付現場にボランティアを置くことだった。

朝、病院が開くと初診受付で病院スタッフがカウンターの外で、来院者に取り囲まれる。受診申込書の書き方など、分からないことに対応しているのだ。その側では、エプロンをしたボランティアの女性が初診患者の対応にあたっている。開始直後の混雑はあっという間に解消された。」という内容だった。病院受付の待ち時間が長いのは患者にとって大変な苦痛だ。それを解消したのが来院者の声に耳を傾けてきたボランティアの提案であった。

 

心理学者の河合隼雄氏は「じっくり待って、相手の言うことを聞いてみる」ことが対話の秘訣であり、「お互いに言う」ことでは対話にはならないという。当社会福祉協議会事務所のスタッフは、電話の向こうの顔が分からない方を相手に実に見事に耳を傾けている。

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