秋は花盛り
窓(H20.11.26)NO80
「秋は花盛り」
晩秋といえるだろうか。むしろ初冬と言ってよい季節である。見上げる山々の落葉樹の葉はそれぞれ個性的な色付きを見せ、冬芽に次代を託して落葉していく。
机の上にニシキギの葉が一枚ある。ドウダンの葉も一枚。そして、桜の葉も一枚。通勤途上で私の前に輝いていた葉達である。どうしても手にとってしまいたくなる輝きであった。一枚手にとってながめ、ふと視線を上げると色づいた葉を身にまとった木が目に入る。
ニシキギの葉は猩猩緋(しょうじょうひ)。※猩猩・・・中国で想像上の怪獣体は犬や猿。毛は長く朱紅色。ドウダンの葉は深緋(こきひ)。桜は紅赤(べにあか)、中黄(ちゅうき)が斑になっている。歯の色名は、和色大事典をネットで調べ、画面上に出して一枚一枚の葉を比べてみた結果である。
和色大事典に掲載されている赤系統の色は、50色を超えている。黄色系統は20色を超え、その多様な色に差は、画面上で定かに判りかねるほどである。こんな微妙な色の変化を捉え、命名することが出来たのは、人を圧倒するほどの色彩の美しさにあったに違いない。私が住む東北の山々は正に今花盛りといってよい。
ある研修会に参加した折、沖縄から来た青年といっしょであった。東京に約3ヶ月寮に宿泊してのその研修会は開かれた。11月にはいるとその青年は休日に栃木県日光山に紅葉を見に行くと張り切っていた。私は、交通渋滞を心配し、「わざわざ行かなくてもいいのに」と。月曜日からまた午後5時まで講義を受けるのだから、「寮に戻るのが月曜日になってしまうよ」と付け足した。するとその青年は、不思議そうに私を見て、何も言わなかった。案の定、午前3時近くなって、その青年は寮に戻ってきた。そして月曜日の研修の休憩時間に眠そうな眼をこすっていた。
紅葉はもとは「黄葉」という字があてられていたという。内から「もみだす」色との意味から「もみじ」と呼ばれ、いつの頃からか「黄」が「紅」になった。
ある新聞のコラムに唐代の杜牧の「霜葉は二月の花よりも紅なり」という詩が紹介されていた。霜にうたれた楓の葉は、春の盛りの花よりも紅いとの謂だろう。しばしば、熟年を超えてさらに精力的で盛んなるさま、輝く姿を譬えるときこの詩が引き合いに出される。
人生完成時期に差し掛かるとき、自分はどんな色に染まるのか。「もみづ(もみいづる)」が紅葉の本来の意味であるなら、人の心の琴線に触れ、労苦と希望に磨き抜かれた人間の内からにじみ出た色彩に染まりたい。しかし、色づき半ばで多く落葉する。定年過ぎたからこそ、ますます少しでも社会の何かのためになるという自分の柱を確認する日々と実践でありたい。
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