どこに自分を落ち着かせるか
窓(H20.09.18)NO78
「どこに自分を落ち着かせるか」
「これで、子どもが良く育つのでしょうか」と教頭先生。保護者からの電話を受け、その報告に来た疲れた様子の教頭先生。
自分の子どもが怪我をした。友達が投げた小石が額に当たったためだ。口げんかから土塊の投げあいになり、結果として額から血がにじむことになった。
「いったい学校はどのような指導をしているのですか」「石を投げてはいけないと指導しているのですか」「学級の児童が仲良くすることを指導してはいないのですか」「わが子がどれほど痛い思いをしたか考えると許せません」「先生も子どもの立場に立ったらその痛さが分かるでしょ」「怪我した状況を私の職場に電話で知らせ、連絡帳で傷の手当をしたと知らせただけで終わりにするのですか」次から次へと母親の口から学校非難の言葉が飛び出す。「ともかく学校側が家に来て、説明と謝罪をするのが当然でしょう。主人が夜8時にならないと帰宅しないので、8時に謝罪に来てください」ガチャン。すさまじい勢いで電話が切られたという。
放課後の校庭での起きたけんかで、怪我した子ども自身が保健室に来て、養護教諭から手当てを受けている。養護教諭は擦過傷であったと教頭に報告している。しかし、怪我の部位が頭部であるため、教頭は担任に詳しく怪我の状況を把握させ、養護教諭の判断を聞いたうえで保護者に対する対応も指導していた。しかし、帰宅して子どもから話を聞いた母親は激怒し、学校に電話をしてきたという。
このようなことは学校現場では珍しくない。「親は事が起きたとき、どのように対応したらよいか分からず窮したから、電話をよこしたのだ」「困っているのは親の方だよ」「だからまず話を聞いて、親が私たちといっしょに考えるようになるまで待ちましょう」と私は口癖のように教頭に話していた。
人は困窮したときどうなるか。私は心理学者ではないので学問的にはどうなのか分からないが、経験だけで考えれば、まず、相手を非難すること、自分がすべて悪いのだと自己を苛むことが一般的なように思う。右に左に揺れた後どういうところに自分が落ち着くかがその人の生き方とかかわってくる。自分は自分だと開き直る、なぜ悩むのかその原因(原点)に戻る、やはり、相手が悪い制度が悪いと非難と批判を強める、悩むことをやめてしまう、自己を苛むことに終始するなど、色々あろう。
「何のために悩むのか、悩みを解決したくて悩むのではないのか」「悩むのはその人が自分にとって大切だから悩むんじゃないのか」「悩みがあることが幸福だよ。解決していこうというところに人としての幸せがあるんじゃないかな」「悩みを持ったのはチャンスだよ。竹で言えば節だ。次ぎの成長のためにここで強い節を作るチャンスだ」「相手じゃない、自分が変われば相手が変わる。まず自分を変える努力をするのが一番遠いように見えて早道だよ」私が人生の先輩たちから受けた言葉はこんな内容がほとんどだった。しかし、悩みの渦中にいるときはつらい。激励をしてくれる友がいれば、これほど力強いことはない。友でなくても話を聞いてくれる人がいればそれだけでも良い。しかし倒れた土に自分の手をついて立ち上がるのは自分でしかない。本来持っている自分の「生命の力」を信じるしかない。一気に好転はありえない。曲がりくねったトンネルを行くと同じで、いつになったら明かりが見えるか分からない毎日が続く。もう明かりなど見えないと思っていると、突然、目の前に明かりが見える。多くの人がそれを私たちに伝えてくれている。他人を非難しているうちは、トンネルの出口に向かう自分のエンジンを停止しているのと同じである。
今日も事務所電話に自分を棚に上げた方が子どもじみた論理を展開しているらしい。話を整理しながら、説明を継続している所員。しかし、所員の説明の途中で電話をいきなり切られたらしい。非礼な態度に職員の顔が曇る。職務と割り切ろうと自分を立て直しているようだ。「困っているからこそ・・・・・」と声をかけたいが、それも空々しい。職員の後姿に私はご苦労様と小さく声をかけた。
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