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2008年9月

桂の落ち葉

窓(H20.09.24

NO79

「桂の落ち葉」

地下鉄の階段を登り、出口まで20数段という所で落ち葉が落ちてきた。乾燥しカラカラと颯風に身を踊らせているもの、まだ湿り気があるのか葉は階段の隅に張り付いているもの、どれも同じ形の葉が数枚目に止まった。私は、そのうちの一枚を手のひらに乗せた。心臓(ハート)の形をした桂の木の葉である。

手にした葉は、今朝落ちたばかりらしく、まだしっとりと水分を含んでいる。葉の周辺が薄い芥子(からし)色に変わり、その一部は唐紅色にわずか変化している。中心部分にはまだ緑色が残され、その紋様は高い空から見下ろした地中海のように見える。芥子色の部分は、さながら地中海周辺の陸地だ。桂の周りの木々はまだ紅葉の気配さえ無い。しかし、桂はいち早く季節を先取りし、自らを唐紅に染め始めた。仙台の落ち葉の代表格であるケヤキなど一枚たりとも色づいていないのに。

桂冠詩人というのがある。イギリス王家やアメリカ合衆国図書館で独自に優れた詩人を評価して与えたものだ。イギリスのロマン派詩人として夙に有名なワーズワースがその桂冠詩人である。桂冠はギリシャ時代に名誉を称えるために与えた月桂冠の意である。日本にも桂冠詩人がいる。イギリスの王家から与えられたものではなく、世界詩人協会から与えられた称号である。ただそれだけで、日本では評価されないばかりか、揶揄の対象にさえなっている。先駆けるものは常に正しい評価を与えられない日本である。

午前9時を過ぎると急に風が強くなった。今まで吹いていた東の風が今日は西の風になった。いよいよ秋が本格化するのだろう。私は急に桂の木が気になって、そばに駆けつけた。案の定三分の一の葉は、空に舞い上がったようだ。紅葉の季節までは残暑の日々が半月ほどある。残暑に紅葉を思う人はいない。紅葉の季節に先駆けた桂の葉はその先駆けの意味すら人びとから評価はされないのだろう。しかし、先駆けた人がいて時は大きく変化を遂げる。揶揄中傷する人はせよ。坂本竜馬も久坂玄瑞も、ワシントンもキング牧師も最初は非難中傷の真只中にいた。日本の桂冠詩人の詩に勇気付けられた人びとは多い。それらの人々は新しい時をこの桂冠詩人とともに先駆けている。

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どこに自分を落ち着かせるか

窓(H20.09.18NO78

「どこに自分を落ち着かせるか」

「これで、子どもが良く育つのでしょうか」と教頭先生。保護者からの電話を受け、その報告に来た疲れた様子の教頭先生。

自分の子どもが怪我をした。友達が投げた小石が額に当たったためだ。口げんかから土塊の投げあいになり、結果として額から血がにじむことになった。

「いったい学校はどのような指導をしているのですか」「石を投げてはいけないと指導しているのですか」「学級の児童が仲良くすることを指導してはいないのですか」「わが子がどれほど痛い思いをしたか考えると許せません」「先生も子どもの立場に立ったらその痛さが分かるでしょ」「怪我した状況を私の職場に電話で知らせ、連絡帳で傷の手当をしたと知らせただけで終わりにするのですか」次から次へと母親の口から学校非難の言葉が飛び出す。「ともかく学校側が家に来て、説明と謝罪をするのが当然でしょう。主人が夜8時にならないと帰宅しないので、8時に謝罪に来てください」ガチャン。すさまじい勢いで電話が切られたという。

 

 放課後の校庭での起きたけんかで、怪我した子ども自身が保健室に来て、養護教諭から手当てを受けている。養護教諭は擦過傷であったと教頭に報告している。しかし、怪我の部位が頭部であるため、教頭は担任に詳しく怪我の状況を把握させ、養護教諭の判断を聞いたうえで保護者に対する対応も指導していた。しかし、帰宅して子どもから話を聞いた母親は激怒し、学校に電話をしてきたという。

 このようなことは学校現場では珍しくない。「親は事が起きたとき、どのように対応したらよいか分からず窮したから、電話をよこしたのだ」「困っているのは親の方だよ」「だからまず話を聞いて、親が私たちといっしょに考えるようになるまで待ちましょう」と私は口癖のように教頭に話していた。

 人は困窮したときどうなるか。私は心理学者ではないので学問的にはどうなのか分からないが、経験だけで考えれば、まず、相手を非難すること、自分がすべて悪いのだと自己を苛むことが一般的なように思う。右に左に揺れた後どういうところに自分が落ち着くかがその人の生き方とかかわってくる。自分は自分だと開き直る、なぜ悩むのかその原因(原点)に戻る、やはり、相手が悪い制度が悪いと非難と批判を強める、悩むことをやめてしまう、自己を苛むことに終始するなど、色々あろう。

「何のために悩むのか、悩みを解決したくて悩むのではないのか」「悩むのはその人が自分にとって大切だから悩むんじゃないのか」「悩みがあることが幸福だよ。解決していこうというところに人としての幸せがあるんじゃないかな」「悩みを持ったのはチャンスだよ。竹で言えば節だ。次ぎの成長のためにここで強い節を作るチャンスだ」「相手じゃない、自分が変われば相手が変わる。まず自分を変える努力をするのが一番遠いように見えて早道だよ」私が人生の先輩たちから受けた言葉はこんな内容がほとんどだった。しかし、悩みの渦中にいるときはつらい。激励をしてくれる友がいれば、これほど力強いことはない。友でなくても話を聞いてくれる人がいればそれだけでも良い。しかし倒れた土に自分の手をついて立ち上がるのは自分でしかない。本来持っている自分の「生命の力」を信じるしかない。一気に好転はありえない。曲がりくねったトンネルを行くと同じで、いつになったら明かりが見えるか分からない毎日が続く。もう明かりなど見えないと思っていると、突然、目の前に明かりが見える。多くの人がそれを私たちに伝えてくれている。他人を非難しているうちは、トンネルの出口に向かう自分のエンジンを停止しているのと同じである。

今日も事務所電話に自分を棚に上げた方が子どもじみた論理を展開しているらしい。話を整理しながら、説明を継続している所員。しかし、所員の説明の途中で電話をいきなり切られたらしい。非礼な態度に職員の顔が曇る。職務と割り切ろうと自分を立て直しているようだ。「困っているからこそ・・・・・」と声をかけたいが、それも空々しい。職員の後姿に私はご苦労様と小さく声をかけた。

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