要援護者支援体制構築

窓(H21.7.28NO83

「要援護者支援体制」

 昨年後半から、仙台市長の要請を受けて、民生委員児童委員、社会福祉協議会、町内会の3者がその構築に動き始めた。

 最初に市長から要請を受けたのは、高齢者調査を担う民生委員児童委員であった。平成20年6月のことであった。社会福祉協議会としては、この体制は町内会の全面的な協力なしに、いや町内会が前面に出て、動かない限りできないと考え、行政に町内会長への強い働きかけをお願いした。

しかし、行政によって町内会長への説明が実施されたのは11月に入ってからである。説明会では、「この体制構築をなぜ民生委員児童委員が町内会長に先駆けて動くのか」「民生委員が要援護者を調べたのだから民生委員が体制を構築すればいいことで、町内会が動く必要があるのか」など、地域のことは町内会が仕切ってきたというプライドを著しく傷つけられた町内会長の批判の渦の中で、うやむやに説明会を終了するという、甚だ情けない会であった。しかもいまだに町内会長の中には、民生委員との連携に積極的になれない方もいる。地域住民の中に新たな体制を構築しようとするときの戦略が行政の壁を破れないまま、地域に放り投げられているように思う。

民生委員児童委員の担当部局は、健康福祉局。町内会長を所管するのが企画市民局。これがなかなか連携が取れない。市民の生命を守るという大切な活動を行うにしても、活動主体は住民であるから、指導はしても実際その組織がどのように構築されていく、実質的に機能するのか等には責任が問われない。まして、他部局とかかわることは、他部局に極力任せるほうが良い。その分仕事が減る。連携を進めようとすることは他部局に迷惑をかけることになる。よって現場がどうなるのかに意識が向かないようだ。行政は縦割り組織で横の連携はきわめて難しいと改めて実感した。

7月26日防府市で起きた大雨による被害は、床上浸水111件、家屋全壊30件という大きな被害を出した。このような被害が出てから、行政が災害対策本部に集いヨコの情報共有がなされるのが常である。

 宮城県沖地震が30年以内に99%の確立で発生するといわれている現在、行政のヨコの連携がなされないことを嘆いてばかりいられない。私は、社会福祉協議会の一員として、社協の特色を活かし、行政の間と間に接着剤のようにもぐりこむことにした。

 まず、民生委員を所管する保健福祉センター、町内会を束ねるまちづくり推進課を訪ねることから始めた。保健福祉センターの管理課長(民生委員児童委員を所管)は、私の話を熱心に聞き取り、自ら民生委員と町内会長、地区社協役員への周知方法を検討し、自ら資料を作成し始めている。町内会長の行政への猛烈な苦情にも私と一緒に立ち向かい始めている。

 町内会長を所管するまちづくり推進課長は、町内会長の名簿開示を条件付で認めてくれた。私がこれからすことは、民生委員の担当町内を明確にし、民生委員個々に知らしめることから始めた。町内会長と民生委員はなかなか連携が取れていないのが現状であるからである。互いに顔を知り合うことから始めるよう地区社協会長へも要請した。

 「社協はアメーバーだ」と気により、地域に福祉ニーズによって、姿を変幻自在に変化させ、入り込む。そんなイメージで要援護者支援体制構築に一助となるべく動いている。

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テポドン2号発射をどう書くか

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「テポドン2号発射をどう書くか」

以下のコラムは、4月6日の朝刊に出ていた。北朝鮮が人工衛星と言っている「飛翔体」が飛んだ次の日のものである。少々長くなるが3紙を引用する。今回の事態をどんな書き出しで表現しようとするのか比べてみた。

(編集手帳)

白い露も、紅葉の上に宿ると赤く見える。〈もみじに置けば紅(くれない)の露〉という。置かれた状況で色合いを変えるのは露に限らない。野球少年が夢を託す白木のバットも、ゴロツキが握れば流血の凶器となる。

(天声人語)

始皇帝の死後、趙高という宦官(かんがん)が権勢を振るった。あるとき、馬だと称して二世皇帝に鹿を贈った。二世は「これは鹿ではないか」と周りに聞いた。正直に「鹿です」と答えた者を、趙高はみな殺しにしたという。異論を言う者は許さない。「鹿を指して馬と為(な)す」のもとになった話である

(河北春秋)

脚が1本だけの鶏料理を使用人が出した。主人がつまみ食いをとがめると、「初めから1本だった」と言い張る。使用人は後日、片脚で眠る鶏を誇らしげに指さすが、主人が近づくと2本脚で逃げ出した。インドの「鶏の脚は1本だけ」ということわざだ。落ちがある。「ご主人さま、あの時も皿をたたいていただければ、鶏は2本脚になったでしょう」。見え透いたうそも、ここまで来れば愉快。

「ゴロツキ」「異論を許さない趙高」「インドのうそつき調理人」どれも北朝鮮の指導者たちを表現している。ゴロツキも趙高も何か血生臭い。調理人は白を黒と言い張る鼻つまみ者である。

私はここで北朝鮮の今回の行為を云々する気は無い。国と国が主張を繰り返しあってことはすまない。北朝鮮の民と他の国の民が語り合う長い道のりの中で信頼を培うことを考えたいと思う。そんな流暢なことをいっているうちにミサイルが落とされたらどうする?そんな声も聞こえるが、その声こそ趙高に近い恫喝である。外交の根本を民と民のかかわりとする考えの上で、自国民を守るための施策をとるなら理解もできる。しかし、日本の外交は、拉致問題を振りかざして民と民の語らいを一向に進めようとはしない。ススキの穂さえ幽霊に見える状態で、相手を怖がっても何にもならない。ピンポンでもサッカーでもマスゲームでも交流することを怖がってはならない。そのうち恫喝に無神経になり、思考を停止し、そのうち趙高のような日本人が出てきたときに、その国を叩きのめすことを厭わない国民になってしまうことが怖い。どうであれあの国には民がいるのだから・・・。

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宮城岩手内陸地震

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宮城県社協主催  

「災害ボランティアシンポジューム参加報告」

2009年1月17日、宮城岩手内陸地震に対応した

栗原市

社会福祉協議会や被災者の代表者を招いて、シンポジュームが開催された。以下その感想である。

1 「支援した側」と「支援された側」

 

 今回のシンポジュームで、被災地支援にかかわった社協関係者から「被災住民のニーズを掘り起こし~~をしてきた」「これからは仮設住宅に現在住んでいる人に~~という支援をしていく」「雪かき、雪下ろし、雪囲い・・・・の支援を立ち上げて・・・」という報告がなされた。報告する社協関係者の姿は、災害発生から今まで被災地に真剣に支援をしてきた誇りと、これからも支援を怠りなくしていこうとの熱意と意欲が溢れていた。

一方、支援される側は、「感謝以外の言葉」はなかなか発せられない立場である。しかし、言々句々の中に滲み出してくるのは、「これから生きていくために、今後支えてほしいことを一体誰が支えてくれるのだろう」という不安感であった。不安を言えば「被災した自分たちが自ら乗り越えなくてはならない」という言葉が聞こえてくる。だから不安や焦燥感を内に閉じ込め、耐えながら何とか「地域の人びとで知恵を出し合うしかない」と自らに言い聞かせている。そんな心情が感じられる支援される側であった。

二つの違った姿にどうしても違和感を覚えた。支援する側に被災者と同苦する姿がもっと見られれば、これほどの違和感はなかっただろう。

2 「避難所では衣食住100%の支援を受けた・・・が・・・」

 

 「避難指示がいまだに解除にならなくても私たちは山に入らなくては生業が成り立たない」「家は壊れても畑は大丈夫なのです」被災者である発表者は、声を荒げるわけでもなく、真情を吐露するように話した。

「陸路で家に行き来できるようになったが、通行許可書がなければ自分の家に帰ることもままならない」「住民は一時帰宅のとき自宅の片付けだけでなく、畑に大根を蒔いて来る人もいる」と被災地の人々の困難さとそれに立ち向かう人びとの営為を語り、「行政の復興計画に住民たちが作る復興計画を盛り込んで欲しい」と復興という目標に向かう被災地住民の姿を報告した。

そして、「避難所では衣食住100%の支援を受けたが、行政もボランティアも生業支援はしない方針であるため、イチゴの植え付けまでは頼めない。農業は時期がはずれれば作物が生産できないんです。本当に助けて欲しいのはこれから生きていくための支援なんです」と途方に暮れた姿も垣間見せる発表者であった。

3 災害ボランティアセンターをなぜ立ち上げなかったか・・・

 災害ボランティアセンター設置を見送った理由は以下の通りである。

    山間地息の被害はあるが比較的家屋の崩壊が少ない。

    土砂の崩落道路の決壊などがあり、人的支援が困難である。

    地域のコミュニティがしっかり形成されていて、自分たちの地域のことは自分たちでやるという気風が強かった。  Etc.

 宮城県社協の北川氏等が、行政や当該社協と種々折衝した結果であった。「設置せず」の結論については、全国的には様々な意見があった。今後検証が十分なされるべきであろう。シンポジュームのコーディネーターを務めた桑原氏は、この点について直接意見を述べてはいない。しかし、「社協としてできることとできないことがあるが、できないことを乗り越える方途は無いのか、それに挑戦するのが社協職員ではないのか」と疑問を提示した。そして、「社協職員は命令で動くのではなく、志で動くべきだ」と付け加えた。

 多様な災害ボランティアを経験し、組織してきた経験からか、その言は聞いている聴衆を一瞬、粛とさせ、その後大きな拍手が沸いた。

桑原氏は「多くの人たちが、ボランティアをどう受け入れるかという『受援』を学ぶことではないか」と、そして今まで全国で展開してきた災害ボランティア活動で培われた知恵の集積を信頼し、活用されることを期待していた。

4 足湯で・・・

 

 被災者のニーズに応えるといっても、明確にボランティアセンターに伝えることができるニーズと何気ない呟きとして漏らされるニーズがあると桑原氏はいう。「足湯で利用者の呟きを聞くのです。その呟きの中から不安や不満を察知し、その呟きを社会化することが必要だ」と対応する社協職員に注文を出した。

 今回のシンポジュームでもっとも肝心なことは「災害ボランティアセンターを運営する社協職員の心の姿勢」に警鐘を鳴らした点であった。「現状はそうだが、何とか解決の糸口は無いか」「知恵を借りよう」「既存のネットワークで解決できないなら、ネットワークを広げてみよう」との諦めない姿勢が強調されたことである。「行政組織がそう決めたから」「できることとできないことがあるのだから」「被災者主体だから」等など、社協職員として逃げ込むことができる理屈は」いっぱいある。桑原氏の言う「志」と自分がどう向き合うかが問われたように思う。

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秋は花盛り

窓(H20.11.26NO80

「秋は花盛り」

晩秋といえるだろうか。むしろ初冬と言ってよい季節である。見上げる山々の落葉樹の葉はそれぞれ個性的な色付きを見せ、冬芽に次代を託して落葉していく。

机の上にニシキギの葉が一枚ある。ドウダンの葉も一枚。そして、桜の葉も一枚。通勤途上で私の前に輝いていた葉達である。どうしても手にとってしまいたくなる輝きであった。一枚手にとってながめ、ふと視線を上げると色づいた葉を身にまとった木が目に入る。

ニシキギの葉は猩猩緋(しょうじょうひ)。※猩猩・・・中国で想像上の怪獣体は犬や猿。毛は長く朱紅色。ドウダンの葉は深緋(こきひ)。桜は紅赤(べにあか)、中黄(ちゅうき)が斑になっている。歯の色名は、和色大事典をネットで調べ、画面上に出して一枚一枚の葉を比べてみた結果である。

和色大事典に掲載されている赤系統の色は、50色を超えている。黄色系統は20色を超え、その多様な色に差は、画面上で定かに判りかねるほどである。こんな微妙な色の変化を捉え、命名することが出来たのは、人を圧倒するほどの色彩の美しさにあったに違いない。私が住む東北の山々は正に今花盛りといってよい。

ある研修会に参加した折、沖縄から来た青年といっしょであった。東京に約3ヶ月寮に宿泊してのその研修会は開かれた。11月にはいるとその青年は休日に栃木県日光山に紅葉を見に行くと張り切っていた。私は、交通渋滞を心配し、「わざわざ行かなくてもいいのに」と。月曜日からまた午後5時まで講義を受けるのだから、「寮に戻るのが月曜日になってしまうよ」と付け足した。するとその青年は、不思議そうに私を見て、何も言わなかった。案の定、午前3時近くなって、その青年は寮に戻ってきた。そして月曜日の研修の休憩時間に眠そうな眼をこすっていた。

紅葉はもとは「黄葉」という字があてられていたという。内から「もみだす」色との意味から「もみじ」と呼ばれ、いつの頃からか「黄」が「紅」になった。

ある新聞のコラムに唐代の杜牧の「霜葉は二月の花よりも紅なり」という詩が紹介されていた。霜にうたれた楓の葉は、春の盛りの花よりも紅いとの謂だろう。しばしば、熟年を超えてさらに精力的で盛んなるさま、輝く姿を譬えるときこの詩が引き合いに出される。

人生完成時期に差し掛かるとき、自分はどんな色に染まるのか。「もみづ(もみいづる)」が紅葉の本来の意味であるなら、人の心の琴線に触れ、労苦と希望に磨き抜かれた人間の内からにじみ出た色彩に染まりたい。しかし、色づき半ばで多く落葉する。定年過ぎたからこそ、ますます少しでも社会の何かのためになるという自分の柱を確認する日々と実践でありたい。

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桂の落ち葉

窓(H20.09.24

NO79

「桂の落ち葉」

地下鉄の階段を登り、出口まで20数段という所で落ち葉が落ちてきた。乾燥しカラカラと颯風に身を踊らせているもの、まだ湿り気があるのか葉は階段の隅に張り付いているもの、どれも同じ形の葉が数枚目に止まった。私は、そのうちの一枚を手のひらに乗せた。心臓(ハート)の形をした桂の木の葉である。

手にした葉は、今朝落ちたばかりらしく、まだしっとりと水分を含んでいる。葉の周辺が薄い芥子(からし)色に変わり、その一部は唐紅色にわずか変化している。中心部分にはまだ緑色が残され、その紋様は高い空から見下ろした地中海のように見える。芥子色の部分は、さながら地中海周辺の陸地だ。桂の周りの木々はまだ紅葉の気配さえ無い。しかし、桂はいち早く季節を先取りし、自らを唐紅に染め始めた。仙台の落ち葉の代表格であるケヤキなど一枚たりとも色づいていないのに。

桂冠詩人というのがある。イギリス王家やアメリカ合衆国図書館で独自に優れた詩人を評価して与えたものだ。イギリスのロマン派詩人として夙に有名なワーズワースがその桂冠詩人である。桂冠はギリシャ時代に名誉を称えるために与えた月桂冠の意である。日本にも桂冠詩人がいる。イギリスの王家から与えられたものではなく、世界詩人協会から与えられた称号である。ただそれだけで、日本では評価されないばかりか、揶揄の対象にさえなっている。先駆けるものは常に正しい評価を与えられない日本である。

午前9時を過ぎると急に風が強くなった。今まで吹いていた東の風が今日は西の風になった。いよいよ秋が本格化するのだろう。私は急に桂の木が気になって、そばに駆けつけた。案の定三分の一の葉は、空に舞い上がったようだ。紅葉の季節までは残暑の日々が半月ほどある。残暑に紅葉を思う人はいない。紅葉の季節に先駆けた桂の葉はその先駆けの意味すら人びとから評価はされないのだろう。しかし、先駆けた人がいて時は大きく変化を遂げる。揶揄中傷する人はせよ。坂本竜馬も久坂玄瑞も、ワシントンもキング牧師も最初は非難中傷の真只中にいた。日本の桂冠詩人の詩に勇気付けられた人びとは多い。それらの人々は新しい時をこの桂冠詩人とともに先駆けている。

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どこに自分を落ち着かせるか

窓(H20.09.18NO78

「どこに自分を落ち着かせるか」

「これで、子どもが良く育つのでしょうか」と教頭先生。保護者からの電話を受け、その報告に来た疲れた様子の教頭先生。

自分の子どもが怪我をした。友達が投げた小石が額に当たったためだ。口げんかから土塊の投げあいになり、結果として額から血がにじむことになった。

「いったい学校はどのような指導をしているのですか」「石を投げてはいけないと指導しているのですか」「学級の児童が仲良くすることを指導してはいないのですか」「わが子がどれほど痛い思いをしたか考えると許せません」「先生も子どもの立場に立ったらその痛さが分かるでしょ」「怪我した状況を私の職場に電話で知らせ、連絡帳で傷の手当をしたと知らせただけで終わりにするのですか」次から次へと母親の口から学校非難の言葉が飛び出す。「ともかく学校側が家に来て、説明と謝罪をするのが当然でしょう。主人が夜8時にならないと帰宅しないので、8時に謝罪に来てください」ガチャン。すさまじい勢いで電話が切られたという。

 

 放課後の校庭での起きたけんかで、怪我した子ども自身が保健室に来て、養護教諭から手当てを受けている。養護教諭は擦過傷であったと教頭に報告している。しかし、怪我の部位が頭部であるため、教頭は担任に詳しく怪我の状況を把握させ、養護教諭の判断を聞いたうえで保護者に対する対応も指導していた。しかし、帰宅して子どもから話を聞いた母親は激怒し、学校に電話をしてきたという。

 このようなことは学校現場では珍しくない。「親は事が起きたとき、どのように対応したらよいか分からず窮したから、電話をよこしたのだ」「困っているのは親の方だよ」「だからまず話を聞いて、親が私たちといっしょに考えるようになるまで待ちましょう」と私は口癖のように教頭に話していた。

 人は困窮したときどうなるか。私は心理学者ではないので学問的にはどうなのか分からないが、経験だけで考えれば、まず、相手を非難すること、自分がすべて悪いのだと自己を苛むことが一般的なように思う。右に左に揺れた後どういうところに自分が落ち着くかがその人の生き方とかかわってくる。自分は自分だと開き直る、なぜ悩むのかその原因(原点)に戻る、やはり、相手が悪い制度が悪いと非難と批判を強める、悩むことをやめてしまう、自己を苛むことに終始するなど、色々あろう。

「何のために悩むのか、悩みを解決したくて悩むのではないのか」「悩むのはその人が自分にとって大切だから悩むんじゃないのか」「悩みがあることが幸福だよ。解決していこうというところに人としての幸せがあるんじゃないかな」「悩みを持ったのはチャンスだよ。竹で言えば節だ。次ぎの成長のためにここで強い節を作るチャンスだ」「相手じゃない、自分が変われば相手が変わる。まず自分を変える努力をするのが一番遠いように見えて早道だよ」私が人生の先輩たちから受けた言葉はこんな内容がほとんどだった。しかし、悩みの渦中にいるときはつらい。激励をしてくれる友がいれば、これほど力強いことはない。友でなくても話を聞いてくれる人がいればそれだけでも良い。しかし倒れた土に自分の手をついて立ち上がるのは自分でしかない。本来持っている自分の「生命の力」を信じるしかない。一気に好転はありえない。曲がりくねったトンネルを行くと同じで、いつになったら明かりが見えるか分からない毎日が続く。もう明かりなど見えないと思っていると、突然、目の前に明かりが見える。多くの人がそれを私たちに伝えてくれている。他人を非難しているうちは、トンネルの出口に向かう自分のエンジンを停止しているのと同じである。

今日も事務所電話に自分を棚に上げた方が子どもじみた論理を展開しているらしい。話を整理しながら、説明を継続している所員。しかし、所員の説明の途中で電話をいきなり切られたらしい。非礼な態度に職員の顔が曇る。職務と割り切ろうと自分を立て直しているようだ。「困っているからこそ・・・・・」と声をかけたいが、それも空々しい。職員の後姿に私はご苦労様と小さく声をかけた。

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一茶

窓(H20.08.29

NO77

「一茶」

藤沢周平が描く「一茶」を読んだ。

一茶は、「やせ蛙まけるな一茶ここにあり」に代表される小動物への軽妙な愛情表現、「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」と現代の人にさえ分かりやすく好々爺の慈悲深い心情を軽易に表現する。しかし、周平の小説「一茶」には晩年の句にイメージされる一茶像とあまりにも違う眼を背けたくなるような他人を嘲け、罵り、妬み、自嘲する醜い姿が描かれていた。しかし、同時にだからこそ生み出せたのだろう晩年の句の深さとその非才さも描かれていた。

早春梅の香りに誘われて繰り出す江戸の庶民を虱に例えて、「梅咲くや里に広がる江戸虱」と詠む一茶。「よろよろはわれも負けぬぞ女郎花」「よるとしや桜さくも小うるさき」そして「死支度致せ致せと桜哉」と拗ね、自嘲する一茶。義母と折り合いが悪く、実父によって江戸に丁稚に出され、職を転々とし、定職に就けず、赤貧で過ごす日々を送った一茶は、食うため金儲けのために俳諧の博打に手を染め、それを足がかりとして俳諧師の道を歩むことになる。所詮俳諧師といっても一流でなければ宗匠として、食べてはいけない。田舎周りをして、俳諧を嗜む富農、富商に寄食するしかなかった。「何が怖いって、舌出した米櫃ほど怖いものは無いからな・・・」という生活である。

少年の頃の一茶は、百姓仕事の手を止めて、道を通る行列、畦の花々、小動物に目を凝らしていたため、義母に散々叱られていたというから、一つのことに執着する性癖であったのだろう。だから一般は見逃しても一茶は見逃さない眼が育っていった。「何が花だ、月だ、蝶だ。蚤も虱も俺の屁さえ、句になる」と嘯くのは、単に妬みだけではなく、赤貧と家も妻も無い40数年の生活の中で澱のように溜まっていった虚飾の無い人間としての感覚だったのだろう。

藤沢周平はあまり実在の人間を描かない。しかし、結核のために入院していた折、俳句を学び、そこで出会った一茶に自らの姿を投影させていたのだろう。そして彼は小説として「一茶」を描くことになったようだ。

「ちる花やすでにおのれも下り坂」「老いぬれば桜も寒いばかり哉」などの句に私は苦笑しながらもなぜか引かれていく。凄愴な句を生み出すこと万を数えるという。私の中に在る自嘲の波長とどこか共鳴するのはなぜだろうか。周平の小説を愛読している私がいつもより一歩引きながら「一茶」を読み続けていたのだが、いつの間にか一茶の句に惹かれ始めている。

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優しさの始め

窓(H20.07.10NO76

 

「優しさの始め」

 

キャップハンディー学習を指導するため、ある小学校を訪れた。指導と言ってもインストラクター二人が長年の経験を活かして指導する。私は指導現場の様子を見せていただくために同行した。

 

「車椅子を利用する人には、優しさから始めて、優しさで終わることが大切なんだよ」と語り始めるインストラクター。「まずベッドなどから車椅子まで移動したことにするよ。さあ!ここから今日は体験してみます」「まず・・・」と言ってインストラクターは車椅子についているフットレスト(足掛け板)に児童の目をひきつけた。「歩けない人はこのフットレストに足を乗せることも難しい。足が乗せられるようにフットレストをセットしてから、皆さんの手を使って車椅子に乗る人の足を持ち上げる」「君、私の足を持ち上げてフットレストに乗せてみて」一人の男の子が前に出た。ゆっくりとインストラクターの足を乗せる男の子。「・・・・。そう!その通りだよ」ニッコリ笑ったインストラクターが学級全員の顔を見て「これが優しさの始めなんだよ」と。

 

見ている子どもたちの目は、優しさから始めるとはそういうことかと納得の表情。「車椅子は、車椅子に乗っている人のもの。後ろから押す人のものではないのです。段差があれば『上げますよ』、降りるなら『降りますよ』と声を掛ける。車椅子に乗っている人を驚かさない、不安にさせない、これが優しさです」と諄々と語り掛けるインストラクター。

 

「着いたらブレーキを掛けておくね。そして最後にすること・・・・。そう、足をフットレストから降ろしてあげる。これが優しさで終わるということです」子どもたちは静にその話に聞き入っている。「もし車椅子に乗っている人がフットレストに全体重を掛けるとどうなるかやってみようか」インストラクターが体重をフットレストに掛け始めると、ブレーキをかけている車椅子が一旦大きく前傾し、次に勢いよく後ろに動いた。あっと!子どもたちは息を飲む・・・。

「フットレストから足を降ろしてやる。危険を取り除く。それが優しさ。そして、優しさとは、相手を守ることにもなるのですよ」ふっとため息を漏らす子どもがいた。そのため息は心から納得した表現でもあった。聞いている子どもたちは「優しさ」という聞きなれた言葉が、現実の重みを備えて近づいてきた。

 

福祉の授業が行われた学校の校長先生が二枚の原稿を見せてくださった。一枚は「地域の方々に配布した広報紙に掲載した私の文章です」という。その中に「ゆうたくんちのいばりいぬ」という絵本の登場人物を例に引きながら「自分と違うから友達になれないと決めないでください。友達とかかわり、友達のことを分かっていこう。友達のよさを知っていこうとすることが・・・・」と書かれていた。もう一枚は校長先生が近頃出会った心に残った一文だという。その中に「福祉はふだんのくらしのなかのしあわせという意味であり、お互いさまという考え方」と書かれていた。

 

「かかわり」から自分を知り、友の良さを知ることや「お互いさま」という考え方を大切に思う校長先生の学校経営、そして優しさを目の前の出来事として印象付けたインストラクターの指導とが互いに共鳴して、児童の心に響いているようであった。

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ボランティアお断り

窓(H20.06.20

NO75

「ボランティアお断り」

ボランティアで村に入る人をチェックする村人がいた。災害ボランティアセンター所長の名前を言えないボランティアは村に入れないという。「ボランティアお断り」のたて看板を立てた村があった。地震に平和な生活を破壊され、ボランティアと称する人に裏切られ、被災者は二重三重の怨情に苛まれることになった。災害ボランティアコーディネーター研修会に参加した際、講師の方から聞いた話である。

岩手・宮城内陸地震の被災地では6月19日午後6時現在で181名の方が避難所で生活をしているという【河北新報より】。みやぎボランティア総合センターの職員が現地に発災直後に現地に入っている。今日で6日目である。その職員からレポートが毎日メールで届く。

6月15日

通常のボランティアセンター機能でニーズ把握としないボランティアで対応すること叶と判断。災害ボランティアセンター設置はしないと決定。

6月17日

ニーズが少しずつ上がっている。水汲みや運搬などの取り組む準備開始。近隣ボランティアの力を借りてマッチングを行っている。

6月18日

ある避難所で避難者に対する支援が行政よりストップが係りは入れない。他の避難所からは以前補助支援要請が入ったので地元ボランティアに声がけし、夕食より支援に入る。県内外からボランティア支援をしたいとの問い合わせ矢も追うし出が徐々に増え始めている。被災者のほとんどが避難所にいることから避難所支援を実現できるかが大きな鍵である。

6月20日

19

16時、副市長の同席の下、あらためて正式に市より了解を得ることが出来た。今回の問題は、市災対本部はボランティアの受入れを認め、市社協へコーディネートを託していたにも関わらず、現場である避難所で市支所が受入れを拒んでしまったことが事の発端。

市より避難所支援の了解を得たことで、大きな避難所である花山、栗駒の両避難所へ市社協としてのボランティア相談窓口を設置して20日より避難住民との直接的接点としていくことになった。

災害ボランティアはまだ日本では日が浅い。ボランティアする人も受ける人もどこか不安がある。被災した人たちは、まったく知らない人が親切に手助けしてくれる経験を持たない。むしろ押し付けの親切心がむしろ苦痛でさえある。

しかし、何とか被災者のために活動したいと願う青年が、行政や地域の方々と時間をかけて話し合い、活動できる範囲を広げている。このような青年が社会福祉協議会に育っていることは何と心強いことではないか。新宿の無差別殺人という凶行が行われたときも青年たちが助けようと必死の行動を取った。青年に期待できると強く感じさせられた。

岩手・宮城内陸地震の被災者を陰で支えようとする人々に心からの敬意を感じている。

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通夜のあいさつ

窓(H20.06.18

NO74

「通夜のあいさつ」

 昨夜の酒がまだ抜けきれない。しばらくぶりに今日の土曜日は仕事に絡んで出かける必要がない。髭も剃らず、頭も梳らず、庭の芝生の上でタバコをふかしていた。8時45分。突然家がガタガタと鳴り出し小刻みに揺れ始めた。一瞬「来たか」と思った。確率90%以上という宮城県沖地震のことである。30年前、目の前で一軒の家がマッチ箱をつぶしたように潰れ、勤務する小学校の木造校舎の二階の屋根が一階の教室まで崩れ落ちた。自宅の家具はすべて倒れた。すべてのガラスは割れていた。一瞬頭をよぎったのはそのことである。

 幸い予測されている宮城県沖地震ではないことがNHKの報道で分かった。震度は6弱。定期入れに入れて常に持ち歩いている勤務先の職員配備計画を見た。5強以上の地震が発生したら正職員は全員出勤することを確認した。二階にいた妻に向かって「すぐ出勤するぞ」と大声を出した。妻は「何かお腹に入れてから出勤してください」と急ごしらえの朝食を用意した。

 車で普段なら40分程で着く勤務先の事務所まで80分かかった。事務所にはもう一人の職員が出勤していて、事務所の被害状況を把握していた。すぐ、事務所が関係する主な方々に電話で安否を確認し始めた。電話連絡はなかなかつかなかったが、半数以上の方々の状況を取りまとめ、「被害を受けた方々は現在いない」と本社に報告した。一息入れた時、県南に住む自分の長男の家族が心配になり、連絡を取った。地震発生から3時間がたっていた。

「どうだ。家族に怪我がないか?」「驚いたけど、誰も怪我していないし、家もだいじょうぶ。親父は今どこにいる?」「事務所に来ている」「やっぱりな。孫を心配するより、まず勤務先に行ってしまう・・・。お母さんが言っていたよ。宮城県沖地震の時は家族が放っておかれたのって。親父の通夜の挨拶では参加者にこのことを伝えたいね」と長男は笑っている。

栗原地区の方々のお気持ちを慮ると居たたまれない想いである。まずは自分と自分の家族の安全を確保すること、その次に近隣に目を向けること。近くの方々との共助無くては身の安全は保てない。すぐに勤務先に出てしまった私は今、今後地震があったらどう行動するか今一度考える必要があると思っている。

次男からその後電話連絡があった。「今どこにいるの」と聞く私に次男は「え!当然会社でしょ。後片付けが大変なんだ。親父も事務所でしょ」と当然ののように言って、電話が切れた。あ~~あ。恋人といっしょにデートだと飛び出して行ったのに。恋人をどうしたんだ。オイ、オイ。

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ぶさいく

窓(H20.05.28NO73

「ぶさいく」 

我が家の庭で子猫が二匹元気に育っている。隣家との境にあるヒマラヤシーダの根元と塀の間、ほんの30センチメートルの隙間が二匹の寝床である。どういうわけか我が家では、飼っていた猫が命尽きると次ぎにまた野良猫がいつの間にか居つくというサイクルになっている。今回出産した猫は我が家の猫が亡くなってから1ヶ月ほどたって現れた。食べ物の匂いをかぎつけて台所にふっと姿を現した。真っ黒な猫なので「クロー」と呼びかけると警戒しつつも逃げもせずこちらを見ている。そんなことが数日続いたので、餌を与えた。数週間で家に入るようになったものの人間のひざに落ち着くことはない。野良猫生活が身についてしまったようである。何処かの家でも餌をもらっていると思うほど胴が丸々太っていた。そう高をくくったのが間違いで、実はお腹に赤ちゃんを宿していたのだ。 

数日間クローが姿を見せなかった。どこで出産したのだろうと心配をしていると突然子猫をくわえて私の書斎に入り込んできた。コタツの中に二匹の子猫を運び込み授乳している。日中は誰もいない我が家である。書斎を猫たちに占領させるわけにはいかない。急遽段ボールで猫小屋を作り1階居間のベランダにおいてやった。しかし、クローはどうしてもその小屋が気に入らない。子猫を連れて何処かに行ってしまった。また数日後、かすかに子猫の鳴く声に耳を澄ますと冒頭の場所に居場所を決めていた。クローは子猫を見てほしいとまるで私を誘うように導いた。白黒が一匹、真っ黒が一匹。計二匹がいた。白黒は目鼻がはっきり分かるが、真っ黒は目まで黒いのでどこが目でどこが鼻か分からない。私の団地の野良猫たちはほとんどが茶色と白の二色が多い。特に茶色の大型の猫が私の家の庭を横切っていく。きっと子猫たちの母親はどこかの団地から運び込まれたに違いない。 

私が勤務している事務所を出て帰宅しようと歩道を歩いていると、私の後ろから大きな茶色の毛並みの頭が急に追い越して行った。若い男女の自転車二人乗りである。後部の荷台に乗っている女性は白いトレーナーを着て茶色のポシェットを提げ、長い茶髪をなびかせていたので、私は一瞬大型の二匹の猫が走りすぎたように錯覚した。真っ黒の猫は薄暗い寝床にいてもいるかどうかよく分からない。闇夜の烏状態である。ごそごそと急に動き出すと少し気味が悪い。そういえば、黒っぽい背広を着て、黒い頭髪の集団が通勤電車から吐き出される姿を見た外国人がその異様さに驚いたとの記事を思い出した。茶髪も金髪も灰色髪もあることが西洋諸国では普通だからだろう。 

茶髪をなびかせている若い男女の背に「よ~~っ!かっこいいぞ!」と急に声を掛けたくなった。颯爽と茶髪をなびかせている若者様子をなぜか心地よく感じたのは、目も全身の毛も真っ黒な子猫の姿が私の意識のどこかにあったせいだろうか。 

真っ黒な子猫を見て愚息が「ぶさいく」と言ったので、名前だけはと思い「キュート」と付けた。 

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民  度

窓(H20.05.15NO72

「民  度」

北京オリンピックの聖火リレーが世界中の話題になった。日本でも中国からの留学生が大挙して長野に押しかけた。日本人から見るとどうしても違和感を抱かざるを得ない。毎日新聞の余禄には「長野の聖火リレーはまるで赤い洪水のようだった。各地から動員された中国人留学生が五星紅旗で沿道を埋めた。北京五輪のスローガンは【一つの世界、一つの夢】。だが、愛国主義の赤一色で塗りつぶされると落ちつかない気分になる」とあった。同感である。

 ミャンマーの大水害もあったばかりだ。朝日新聞の天声人語には「自然は公平でも、人間の側に様々な不公平がある。そのひずみを、天災はあぶり出す」として、軍事政権が各国の人的援助を拒否している姿を「天災があぶり出したひずみの最も愚かな一つであろう」と酷評している。これまた同感である。

 しかしなぜアジアの二つの国が国際社会からの非難を集めているのか。非難の声を大きくあげているのは西洋諸国である。報道によれば人権宣言の国フランスの声が一番大きいという印象を持つ。確かにフランスは民衆が「自由・平等・博愛」を国王から戦い取った国である。そのフランスでさえナポレオンという皇帝を生み、王政復古という曲折を経て民主主義を勝ち得た。

 アジア諸国は西洋列国の植民地主義の犠牲になった。民主主義を勝ち取る歴史をたどる暇さえ与えられずに搾取された歴史がつい60年ほど前まであった。今西洋諸国が二つの国の民衆の味方になったかのように声高に言う価値観を私は否定しない。しかしアジア諸国が今民主主義への道をどう歩むのかを見守る責務が傲慢な植民地主義を歴史に持つ西洋諸国にあるのではないか。日本もアジアを席巻した歴史を持つ。声高に今の自国の価値観を押し付けるかのような姿勢はとるべきではない。このような国々の指導者と地道な対話と出来る支援をしていく姿勢を持つことが必要だと考えている。五星紅旗を打ち振る中国留学生の民度が現在の中国の民衆の民度だとすれば、それをまず受け止め、民衆レベルの交流を進めていく度量が先進国を任ずる国々の民度でありたいものだ。

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トポス

窓(H20.04.17NO71

 

「トポス」

 

 桜の花は一つの花芽から58つの花が顔を出している。花が散った直後から次の年の花芽を形成し始め、冬の寒さが開花を促すことはよく知られている。一つの花芽に包まれ夏と秋そして冬を過ごした58つの花は同時に開花するわけではない。早いもの少し遅れるものそして他のみんなが開花し終わっても臆病に花を開かないものがある。同じ場所で同じ花芽の中ではぐくまれてもそれぞれ違うのが面白い。

 

「幕末期、維新の原動力となった青年が活動した。そうした人材群がなぜ一時期に固まって輩出されたのか。その理由について、麗沢大学の松本健一教授は「自分なりの才を生かし、伸ばすトポス<共同の場>があった」と指摘している。そこで、異なる能力を持つ若者と知り合い、切磋琢磨することによって個性を輝かせたというのである。」とある新聞のコラムにあった。同じ武士であっても身分も育った気候風土も藩風も違う者たち、言語すら通じないほどの違いがあった。それを乗り越えて議論をした。だから人は育ったというのだ。

 

異質なものを排除する。この空気は地域の方々と話をしていても強く感じるところである。特に政治信条や宗教について排除の論理が働きやすい。また、人権を主張する人々にも排除の目が注がれる。

 

共同募金や赤十字への募金を町内会費に一括して集めることは思想信条の自由を侵す恐れがあり、公序良俗に反するとの最高裁判決が出た(平成20年4月3日)。町内会の方々が募金を集めるのに大変苦労するかもしれない。なぜ裁判を起こさなくてはならなかったのだろうか。この裁判を起こし得た人(

滋賀県甲賀市

希望ヶ丘自治会の一部の人たち)が異質なものとして排除されていたのだろうか。それともみんな同じようにと考える人々が多かったのだろうか。どういう議論がなされたのだろうか。新聞記事や最高裁の判決文を読んだだけでは地域の実情は分からない。ともあれ、異質な人たちと共に考えあうのが町内会というトポスではないのだろうか。

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一目千本桜

窓(H20.04.14NO70

「一目千本桜」

 桜の花は下を向いて咲く。下から見上げるように見るのがよいといわれている。私は白石川岸の一目千本桜を見上げながらしばし歩いた。二人の孫が両手をふさいでいる。春風が桜花をかすかに揺らす。確かに花は私たち三人に笑みかけるように見下ろしている。

小さな白い雲がゆっくりと動いているのが花房の間から時折見える。いまだ開花しないつぼみの花先は桜色が一箇所に集まったように色が濃い。紅紫といってよいほどである。今から開こうとする命の力強さのゆえに紅紫なのだろうか。この色は、開くにつれて花弁に等しく移っていき、あの品の良い桜色になっていく。車中、地元の放送局のアナウンサーが「ピンクといっても白に近い上品な色なんですよね。桜の色は。あの色に包まれるととても癒されるんですね」と桜花を評価していた。

 

 一目千本桜は、大正12年に白石川堤防が竣工した際、

大河原町

出身で、当時東京で成功していた高山開治郎氏が、2人の植木職人とともに、約1,200本を未来の桜の名所を夢見て植えたものである。大正12年4月28日付け河北新報には「桜苗木寄贈・大河原出身者東京林業社社長が桜苗木を一千本寄贈」との記事があるという。植えられた桜は、今年で85年の年月である。現在総延長約8kmの見事な景観となっている。植えつけられてからどれほど多くの方々がこの桜を守ろうと努力されてきたのか。人々の桜への思い入れの深さが感じられる。

 両手の孫たちも100年前いや歴史そのものの恵みを受けて大きくなっていく。今はまだ、花先が紅紫さえにもなっていない孫たち。この子たちがまたこれから先の人々に恵みを贈れる人に成長してほしいと願いながら、ちょっと強くなってきた春風の中を歩き続けた。

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芽吹き

窓(H20.04.10

NO69

「芽吹き」

「ケヤキの木が赤いよ」とすれ違った男の子が母親に声を掛けた。街路樹のケヤキの新芽がぼんやりと茶色に染まっている。「春の暖かさで新しい葉が出始めたのね。まだ赤ちゃんだから赤いんだね」母親は立ち止まってから、男の子と手をつないだ。ケヤキを見上げている親子をそっと春風が包んだ。

 桜開花のニュースが出て人々の目がそろって桜に集まっている。しかし今見ごろなのが落葉樹の芽吹きである。山里を散策するとそれぞれの木々が個性豊かに新しい葉の色とその出し方を競っているかのようである。イロハカエデは葉の先を地面に向け、うなだれるように新芽を出す。そして葉の先端を赤く染める。うなだれたように芽吹くのはコナラも同じである。エゴノキは天に向かって万歳しているように上を向いて芽吹き、薄萌黄色に開く。ミズキも同じように天に向かって芽吹く。

 多様な芽吹きの様子を見ていると、新聞のコラムで読んだ松下幸之助氏の生き方を思い出す。氏は、万物が芽吹き、草木が躍動する春の様子を「積極主義」と評したという。厳しい冬であろうと、「積極主義」で自然は成長し続ける。氏は、積極主義こそ「わが社の伝統の精神」として、新たな事業に向かった。また、「つねにみずから新しいものをよびおこし、よびおこしして、そしてなすべきことをなしてゆくという態度を忘れてはならない」(『松下幸之助実語録』)とも言っている。

 芽吹いたケヤキの葉が赤いと驚いた男の子の心の中に、春の浮き立つような想いと母親の手のぬくもりがきっと、明るく積極的な生き方を好む青年へと成長させていくのだろうと思いつつ、私は二人を見送った。

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もちもちのうで

                   窓(H20.04.09)NO68

                    「もちもちのうで」

 4月3日付け朝日新聞天声人語は何ともやりきれない事件に関わる内容だった。青森県で母親が自分の子を電気コードで首を絞めて殺害したという内容である。

 殺された西山拓海君は昨年、「お母さん」という詩を作り、「晩翠わかば賞」の佳作に選ばれた。

〈おかあさんは/どこでもふわふわ/ほっぺはぷにょぷにょ/ふくらはぎはぽよぽよ/ふとももはぼよん/うではもちもち/おなかは小人さんが/トランポリンをしたら/とおくへとんでいくくらい/はずんでいる/おかあさんは/とってもやわらかい/ぼくがさわったら/あたたかい気もちいい/ベッドになってくれる〉

 天声人語はこの詩を紹介した後に「何度も抱きしめてくれた『もちもちのうで』が、この朝は凶器だった」と記した。何という母親だとテレビのワイドショーは、あれやこれやと非難の声を上げ、コメンテーターといわれる人が分かったような無責任な発言を繰り返すことだろう。数日するとこの事件のことさえほとんど忘れ去るのに。

 ある会合で若い女性たちの輪に入った。学校現場が理不尽な要求にさらされていることが話題となった。一人の若い女性が「学校も大変ですよね」と同情気味に同席した教師に話し掛け、単なる軽口であるが、「本当に何を考えているか分からない母親たちがいる」と続けた。

 私はその軽口を軽口のままやり過ごすことが出来なかった。確かに理不尽な物言いをし、自分の責任を他人の責任とする母親はいる。ではなぜそのような物言いをするのか。理由があるはずである。むしろ相手を攻撃せざるを得ない苦衷が母親の心を占めていると捉えるべきではないか。

 教育関係者が「何を考えているか分からない」というのはその母親ばかりではなく、その母親の子どもさえ、かえりみないと宣言しているようなものではないかと思う。そのような母親も父親も何ともならない自分に苛立ち、その苦しみに同苦(苦しい状況や心情の共感的理解)してくれる人の無さに落胆しているから、攻撃の矛先を他人に向けざるを得ないのだ。もし理不尽な物言いを向けられたら、まずそういう方の思いを受け止め、対話を続ける努力を惜しまないことからスタートすべきでなないだろうか。

 「母親も苦しんでいるから、学校に言いたくなるんだよ」という私の発言に、同席していた若い女性が急に私に向き直り、「そう考えてくれる人がいるんだ。そうなんですよね。そうなんです・・・。これで少し安心できた。うれしい」と笑顔になった。その女性は実は独身に見えているが、若いお母さんだったようだ。近くやってくるだろう子育ての難題、その不安が心の片隅にあったのだろう。

 聞いてほしいと拓海君の母親は思っていたのではないだろうか。彼の母親を責める前に、聞いてやれなかった私たちをこそ振り返ってみたい。

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花見

窓(H20.04.04.

NO67

「花 見」

東北の町にも桜前線がもうすぐやってくる。そんな話が家族で交わされた。「花見もいいけれど、あの提灯と演歌を流すのと屋台だけはいただけないな」「ぼんぼり(雪洞)は秀吉の時代にもうあったそうだ。いわばライトアップかな」「吉野の花見では飲めや歌えも行われたのだから、皓歯細腰の姫たちが音曲にあわせて踊ったのも伝統みたいなもの。演歌も仕方がない」「人が集まれば、食物屋が集まるのは世の道理。大阪夏の陣の勃発直前にも食物屋だけは最後まで店を閉めなかったというくらいだから」「やんぬるかなと諦めますか。提灯と演歌と屋台は!」ということになった。

東京新聞のコラム「洗筆」でこんな文を読んだ。以下引用

花見の三要素を<「群桜」「飲食」「群集」>と定義するのは白幡洋三郎著『花見と桜』。奈良・平安の昔からある習俗が江戸時代に民衆娯楽化して今に続いているものらしい。確かに三要素の、どれ一つを欠いても、気分が出ない感じがする。

ゆっくり桜の見事さを愛でて、騒がしさはいらないとするわが家族はやはり変わり者らしい。

「花見」は農耕者が作物の植え付け時期を開花によって知るために桜を見に行ったのが由来だ。ところが見事に咲いた花がぱっと散るさまが男らしいと何かの意図があってか命を軽視する思想のために使った。「男ならぱっと散れ」とはまったく都合のいい話に仕上げたものである。

「洗筆」でも「花の観賞」が花見の三要素に入らないのは仕方がないと白幡氏の三要素を道理だとしている。我が家も花見で詩歌を詠むなどと一人気取っていずに、屋台から大いに買出しして、飲食と手拍子でまいりますか。

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冷蔵庫の葡萄

窓(H20.04.03NO66

 

「冷蔵庫の葡萄」

 

我が家の冷蔵庫には葡萄一房が入っている。確か1月24日に入れたものだ。義父の葬儀の供物である。妻はなかなか食卓に出さない。不思議に思ったが父を思う妻の心情からなのかと私からは触れずにいた。冷蔵庫に入れるときには少々痛みが来ていたことを妻が分かっていたからなのかも知れないとも思う。2ヶ月以上も冷蔵庫で大切に保管し、このままで居れば、いずれ化石になるのも近いかもしれない。

 

読売新聞のコラムにこんな古川柳が紹介されていた。「本降りになって出ていく雨宿り」小降りのときに決断すればいいものを、本降りを待ってずぶぬれになってしまう人間の滑稽さを詠んだものだ。

 

他人の決断の鈍さに苛立ったり、笑ったりすることは良くあることである。2001年頃話題になった本に二匹のネズミと二人の小人の物語『チーズはどこへ消えた?』(スペンサー・ジョンソン/扶桑社)がある。迷路の中に住む二匹と二人がチーズを探すという短い寓話である。手に入れたチーズが消えた!――この「変化」に対して、ネズミは即座に行動を起こす。しかし、一人の小人は“待っていれば何とかなる”と一歩も動かない。もう一人は、迷路に出て探そうと決断して、「新しい方向」に進む。この物語のテーマは「変化への身の処し方」である。

 

妻はいつ捨てることを決断するのだろうか。葡萄に変化が起きていることは認識していてもその変化が決定的なものだとはっきり分かるまで行動を起こすことをためらうのか。二匹のネズミと二人の小人は人間が示すパターンを示唆しているという。それぞれのパターンにはそれぞれの理由があり、それが人間的である。どれがよりよいと言うより、それが人間的なよさなのだと認め合うことではないか。案外「待っていれば何とかなる」と考えるタイプも力をその楽観主義、傍観主義、非積極性のゆえに価値ある存在になるときがある。まわりに居る人間しだいではないだろうか。私は葡萄がいつ化石化するかをしばらく観察することに徹しようと思う。

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浮かぶ花弁

 

窓(H20.04.02NO65

「浮かぶ花弁」

春陽が眩しい。私の勤務先の本社の前に日本庭園がある。光りに導かれるように垂れ柳がやわらかい萌黄色の芽を吹き出し始めている。柳の枝は池の中央に向 かってゆらりと向かっている。数週間前まで池は干されていたが、今はたっぷりと満たされている。その池の水面に真っ赤な花弁がゆっくりと動きながら浮いて いる。本社屋を管理する館長が「あれは山茶花ではないのですよ。寒椿です」と説明してくれた。確かに「寒椿」と記入された木札が付いている。

 椿なら武士が嫌ったように花の首から花丸ごとが落ちる。この寒椿は異種で山茶花のように一枚一枚の 花弁が落ちるのだろうか。どうも理解し難い。多くの人々が山茶花のことを寒椿と思い違えているようだが、この木札をつけた人もひょっとしてそんな誤謬の穴 に落ち込んでいるのではないかと疑った。  ともあれ、浮かぶ花弁は8枚。ゆったりと付いたり離れたりしながら円を描くように揺蕩う(たゆとう)様である。これからもっと多くの花弁が池に浮かべば いったい水面はどのような様になるのか想像する。最初に浮かんだのが映画「椿三十郎」である。大量の椿の花を流すシーンである。でもこれは、花弁ではなく 花丸ごとが流れていく様である。真っ赤な椿の花丸ごとが大量に流れる様は確かに見事である。しかし、風情はない。本社前の寒椿の花弁が池に浮かぶ姿は風情 がある。

 さて、椿の花には香りがない。だが、「ツバキは香りのないことなど問題にならぬほど完璧に美しい」 と「花の文化史」の著者コーツの言を新聞のコラムで見たことがある。椿が咲くと春の訪れが近いとされ、「古事記」や「万葉集」にも登場し、古くから親しま れている。確かに池は春陽で包まれている。季節は今、春の入り口の扉を開け放った。

 

 

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好雨

窓(H20.03.29NO64

 

「好  雨」

 

「好雨知時節、当春乃発生」(好雨 時節を知り、春に当たって すなわち発生す)。杜甫の「春夜喜雨」という詩の最初の一節である。今日は朝から雨である。昨 日までの温かさとは打って変わって肌寒い。しかし、コートに襟巻きまでは不要である。しっとりと濡れた地は黒々として、芽吹きを一層誘うようである。将に 「好雨」である。

 

 霧の中に透けるように見える山のように駅前公園のニシキギはぼんやりと輪郭を現し始めている。近くからはまだ骨だらけの枯れ枝しか見えないのに、遠くからは紅い輪郭が見えるのである。

 

遠くの山々がこの雨を吸い込んで、ほの紅く見えるのは、芽吹いた直後の葉の先端の紅色のせいである。それが数日すると葉の裏が柔毛に覆われた若葉となる。そして葉の裏が柔毛の銀色に、表面はそれぞれに独特の緑色となって風が山々を通るたびに山全体が緑となり銀色となる。

 

冒頭の杜甫の市に続く二文には「随風潜入夜 潤物細無声」(風に随ってひそやかに夜に入り、物を潤し細やかにして声なし)とある。春雨が慈雨と呼ばれるのに相応しいのは杜甫のような詩人に会うと一層その意が深まるように思う。

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春まだ遠きか

 

窓(H20.3.2NO61

 

「春まだ遠きか」

 
「春近し」は、まず日射しの変化で感じ取られる。「光の春」と言われる。勤務する事務所に向かうため、地下鉄の入り口を出た。一瞬いつもと違う太陽の明るさを感じたのは立春を過ぎて数日後であった。

  その光に誘われて地下鉄入り口の小さな公園にある椿に目をとめる気になった。春も秋も夏さえも毎日足を止めてみている椿であるが、冬はどうしても足早にその前を通り過ぎていた。三輪咲いている。一輪は寒風に揉まれたのか花びらが傷ついている。残りの二輪はこれからも来るであろう春雪を知らずか可憐に五分咲きである。「嗚呼、咲いていたか。もう三輪も。いや申し訳なかった」とつまらぬ独り言を言いながら、一輪を手のひらで包んだ。それから数日後、椿の葉に積もった塵を拭うような小雨が降った。椿は小雨を沐し、すがすがしい姿になった。明るさを増した光が一層それを引き立てている。夕、週末寒波到来とTVが伝えていた。

  前三後一とは、獅子が獲物を捕らえる姿である。百獣の王の油断せぬ様を表している。春の至福はそう簡単に到来はしない。「温度の春」が訪れるまでは冬と春が何度も行ったり来たりである。春の油断せぬ慎重さが恨めしい。

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春近し

窓(H20.02.13NO63

 

「春近し」

 

「春近し」は、まず日射しの変化で感じ取られる。「光の春」と言われる。勤務する事務所に向かうため、地下鉄の入り口を出た。一瞬いつもの違う太陽の明るさを感じたのは立春を過ぎて数日後であった。

その光に誘われて地下鉄入り口の小さな公園にある椿に目をとめる気になった。春もあきも夏さえも毎日足を止めてみている椿であるが、冬はどうしても足早にその前を通り過ぎていた。三輪咲いている。一輪は寒風に揉まれたのか花びらが傷ついている。残りの二輪はこれからも来るであろう春雪をものともせぬ風情で五 分咲きを保っている。「嗚呼、咲いていたか。もう三輪も。いや申し訳なかった」とつまらぬ独り言を言いながら、一輪を手のひらで包んだ。

それから数日後、 椿の葉に積もった塵を拭うような小雨が降った。椿は小雨を沐(もく)し、すがすがしい姿になった。明るさを増した光が一層それを引き立てている。

 
 「明日からこの春一番の寒波が日本列島を覆います」椿の葉のすがすがしさを愛でて数日後の天気予報である。寒波到来の日、夕刻妻を駅まで迎えに行った。7,8分で駅に到着するはずが、30分もかかった。対向車線は1キロメートルも渋滞している。団地に登る坂道を登れない車が立ち往生している。車外は吹雪である。路面は凍結している。駅からまた30分以上かけてやっと帰宅した。寒波は4,5日日本列島上に渋滞するという。冬将軍が春の姫君の到来を意地悪にも邪魔立てしているかのようである。

 
 前三後一とは、獅子が獲物を捕らえる様を表現し、百獣の王たるものでも油断せぬ様を表している。春の至福はそう簡単に到来はしない。「温度の春」が訪れるまでは冬と春が何度も行ったり来たりである。春の姫君の油断せぬ慎重さが恨めしい今日この頃である。

 

 

 

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父の死

窓(H20.01.29NO62

「父の死」

 父は89.4歳である。一ヶ月前に10日ほどの入院を終えて帰宅していた。正月には孫や曾孫の顔を見て、満面の笑みを浮かべていた。朝、母の作った砂糖の入った湯を喜んで飲んだ。食欲は入院前に戻っていた。母は父のための朝食作りのため、台所に立った。10分ほど立って父のベッドに行くと父は顔をうなだれて眠っているようだった。しかし呼びかけても目を開かなかった。父は今、89.4年間を見事終えて一時の休みをとり、また命を若返らせて縁あるところに生まれ出る。

 通夜の読経が始まった。近隣の方々がたくさん参加している。皆が声を合わせて読経する。生存中にお世話になった方々の読経である。生存中に何のかかわりもなかった僧侶が読経しているのではない。父の棺の前に座っている方は、生前、信仰上の指導を受けた父の友人である。リズムが揃った軽快な唱題の声が父の体を包み、抱きかかえている。この友人葬は宗教の権威など入り込まない。友の真心の葬送である。父の遺影の前にある位牌には戒名などない。本名が書かれている。死をもって突然、仏門に入るための戒名を授けられることはあまりにも不自然である。墨痕鮮やかに父の名前が書いてある位牌はすがすがしくさえあり、その位牌を見れば父が生きてきた様々な事柄が脳裏に自然に浮かんでさえ来る。

 父の娘を嫁にした私は、父の温厚さに何度も救われた。私を黙って信じていてくれた。愛娘が私のことで苦しんでいるさまを見ても、私を一度も責めようとはしなかった。私は怒声が襲うと覚悟しても、父はいつもにこやかな顔で私を迎えてくれた。母も同じように接してくれた。私のふがいなさに一番怒っているのは私である。それを温かく包んでくれた父と母。私は20代にこの両親に救われた。

 父は毎日、新聞を1時間2時間と目を通し、娘やその夫が紙面に出るとそれを切り取っては大切に保管していた。母が信仰上の会合に出るときは必ず、車で送迎した。父は家族よさを生かし、さりげなく支えていた。そして、父は自宅でも、入院中も一度も病で苦しむことなく、いつもの笑顔で2008121日霊鷲山に旅たった。

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新たな朝

窓(H19.12.23NO60

 

「新たな朝」

 

 生まれたての雲がたゆたいながら山稜に向かって這い上がる。視界に入る山は黒々としてこれから白雲になる白糸の雲を生み出している。山の間を縫う濡れた道路は、視界を遠くに移すに従って山に溶け込んでいく。山の温泉地の払暁は若い娘の素顔である。見ている人たちの優しい笑みを誘う飾らぬ姿である。ホテルの11階から見える化粧前の風景は40年前見たどこかの風景と私の中で重なっている。

 

 40年前に出会った妻が今年今月で還暦となった。昨夜は二人でそれを祝った。40年前に何度も同じような風景を見たように思う。若い私たちは明け方まで語り合い、ふと窓を開けると音もなく降った深夜の雨が止み、朝日が昇る前のぼんやりした風景に白糸が徐々に束ねられていくような雲がたゆたう姿を二人で見ていた。

 

 昨夜は40年間を一つ一つ振り返ってみることもなく、今日まで床に伏したことがあったが特段の病ではなく健康でいられること、今まで働き続けてきたこと、これからを楽しみにしていることなど取り留めなく語り合っただけである。妻は今でも出合ったころと変わりなく私にとっては美しい人だし、自分を失わない忍辱の人である。今、窓の外を見ている私の部屋の次の間で軽い寝息を立てている。きっと起きざまに言うだろう。「さあ!温泉に入ろう!」

 

 長男は伴侶を得て二人の子どもをもうけた。次男は恋人がいて正月早々家に挨拶に連れてくるという。朝日が雲間から光の束となって山の木々を照らした。枝に付いていた水滴がその光を受けて光る。しかしまた雲にさえぎられて光は沈黙する。その繰り返しが新たな朝を開いていくのだろう。

 

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周平の表現

窓(H19.12.27NO59

 

「周平の表現」

 

 池波正太郎の「真田太平記」全12巻のうち10巻まで読み進めた。話を面白くするためか、真田家といえば猿飛佐助が登場するのが当たり前のせいか、女忍者(草の者)お江を登場させ、テンポよく話が進む。

 11,12巻目を購入できずにいたため、1日だけ藤沢周平の作品に戻った。一度読んだ短編「三月の鮠」を読み返すことになった。

 

主人公の「信二郎」が川釣り用の竿を担いで村はずれ民家の道を

山麓に向かって歩くシーンである。


「生垣の内からさしかける新葉の欅の大木に日を遮られて小暗くなったり、急に木陰も家もなくなって真夏のように白く輝いたり・・・・・」

「小流れは絶えず人がつぶやくような水音をたてて・・・・・」

 

主人公は剣術の試合で惨敗し、屈辱感にさいなまれる。家人にも道場の仲間ともまともに顔を合わせることを避け、川魚釣りに明け暮れる日々を送る。この文章は私に細密な日本画を見ているような感覚にも主人公の鬱屈を暗示させもする。朝7時40分からの30分間は街角にある喫茶店での私の読書タイムである。私はこの数行の文章に釘付けになってしまった。今まで読んでいた「真田太平記」では味わえない、巧みな表現に出会った高揚感が私を包み込んだ。

 

 今朝はしばらくぶりで地下鉄入り口の公園に立ち止まった。周平の表現に出会った高揚感はまだ私を包んでいた。目の前にある一本一本の木や草を立ち止まって見つめてみることを私はまた始めたくなった。


 

 地下鉄出口の小さな植え込みにニシキギがある。晩秋につけた小さな赤い双子の実がまだ数個目立たぬように残っていた。そのそばに椿の木がある。寒風の中にあって葉は光沢を一層増している。椿は冬から春に咲く。蕾を見つけようとしたがなかなか見つからない。蕾は葉の色と全く同じである。やっと一個を見つけると、もうすっかり固太りした蕾が次々に見つかる。事務所の机で「向寒の候」などと書いた挨拶文や礼状を点検している間に、椿は「向春」の準備をすっかり調えていた。

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晩秋の風景

窓(H19.12.NO58

「晩秋の風景」

木枯らしが吹いている。ケヤキの枯葉が群れになって歩道や空き地を走る。その姿は小学校の休憩時間の校庭の様子さながらである。ボールに向かって一斉に駆け出す、ボールを持った子がふと方向を変えると、追いかけていた子どもたちが一瞬渦巻き状態になる。校庭にはそちらこちらに子どもの塊ができる。かけながら大声で叫ぶ、その声が校舎にはねかえり、声の渦になる。 木枯らしがケヤキの枯葉に命を与え、群れさせ、カラカラと笑い声を上げさせ、走り回らせる。晩秋のいつものこの風景は私を微笑ませ、それを私はこらえることができない。

 出勤時に新たな音が加わった。ザー、ザー、ザー。息が白くなりそうな朝。街路樹が春に向かって、新たな衣に着替えるため脱いだ衣装を歩道の上にはらはらと落とす。その色づいた歩道上の落ち葉を竹箒で集めている音である。大きなビルの前で帽子をかぶり、会社支給のユニホームを着た男性が竹箒を斜めに構えて箒を振る。とんかつ屋さんの前で三角巾をかぶった若い店員が小さな前掛け付近に箒を構えて、ザッ、ザッ、ザッとリズムを刻む。銀行の前では背広姿の若い男性行員が箒を立てに構えてぎこちなく、ザザ、ザザ、ザザと音を立てる。晩秋に加わった街の音。心地よい音に事務所に向かう私の足もリズミカルになる。

 

 出勤時に雪がちらついた。地下鉄を降り、プラットホームから階段を登り始めるといつもと違った雰囲気が私を包んだ。階段のところどころに茜色の模様が付いて、どことなくいつもより華やいでいる。階段の御影石の灰色をバックにした茜の模様は、階段に一枚二枚と張り付いているカエデの落ち葉である。小雪でぬれた公園の道からこの階段まで急ぎ足で通勤する人たちに運ばれて来たらしい。改札を抜けると黄はだ色の石の通路に出る。石の通路上は、公園のカエデの木々が茂っている駅入り口が近いせいか、カエデ葉が増え茜色が一層艶やかである。一瞬、出勤前の気分は吹き飛び、周りの人々の迷惑も顧みず、歩をゆっくりと進めたくなった。こんな晩秋の美しい一瞬を都市の真ん中で味わえるとは思ってもみなかった。私は、通勤者が無表情に急ぎ足で通り過ぎる地下鉄通路で、場違いにも笑みがこぼれた。

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喫茶店

窓(H19.12.3NO5

「喫茶店」

私が行く喫茶店では、客が店でいれていただいたコーヒーを自分の席まで運び、自分で片付ける。私は、コーヒーを自分で運ぼうと運んでいただこうとコーヒーの香りと暖かな部屋という快適な空間があれば幸せを感じる利己主義者を決め込んでいる。

ところで朝日新聞の天声人語で、駐日大使を長く務めたマイク・マンスフィールドさんが自ら来客をコーヒーでもてなすことで有名だったことが紹介されていた。彼は、来客に「コーヒーを一杯いかが」と聞くと、大使室の奥の小さな台所に入り、カップを運んでくる。日本の大使に赴任したのは77年。当時はまだ一般的だった日本女性のお茶くみの慣習への抗議の意味が込められていたという。お茶くみは、それをさせられる人をおとしめると彼は考えた。「私がコーヒーを入れることで、彼女たちの立場を楽にしてあげたかった」という。

ところが、時代が倉皇の様を呈しているからか、短時間のコーヒータイムを楽しめる場所が街角にできている。しかも電子マネーのカードを利用すれば200円以下でコーヒーが飲める。時間制限が気になったので聞いてみると「ご自由に時間をお過ごしください」とのことであった。しかし、「敵もさる者、引っ掻くもの」で、椅子が長時間利用を許さないようにできている。1時間程度で椅子の利用を断念せざるを得ない。でも気温が13℃を下回る地下鉄プラットホームベンチに耐えられなくなった私にとっては、少々苦めに入れてある温かい「本日のコーヒー」と「適度の室温」は、読書に集中させてくれる最高の環境である。

 学生時代、時間つぶしには格好の場所があった。喫茶店である。駅周辺に必ず数軒あった。コーヒーいっぱいで数時間本を読むことが出来た。おまけにクラッシックの名曲つきである。読んだ本や新聞記事の印象をメモしたり、自分の考えをまとめたりするにはこれほど都合のよいところは無い。毎日一回は利用していたのではないだろうか。また、友人との議論の場所として利用することも出来た。しかし、今は駅周辺が全国展開の居酒屋で占められ、学生時代と同じような喫茶店の影もない。

 35年ぶりに通勤時の交通手段が、自家用車をやめ、公共交通機関を利用するようになってから約8ヶ月が過ぎた。今はバスや地下鉄の中での読書が最大の楽しみになった。気温が17℃を下回らなかった10月までは、勤務時刻前やバスの待ち時間は、地下鉄のベンチで読書が出来た。しかし11月からはそうもいかない。地下鉄のプラットホームも結構冷え込むようになって来た。

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骨格だけのニシキギ

H19.11.28NO56



「骨格だけのニシキギ」


 地下鉄駅の階段を登り、駅の小さな公園に出た。公園内のニシキギの紅の葉が散った。あれほどまで燃えるようにひときわ己を際立たせていたニシキギは、骨格(枝)のみを残し、まるで透明の樹木になったとさえ思えるほど陰は薄く、後ろの風景が透けて見えている。

 ひときわ今目に飛び込むのはドウダンの葉の茜である。ニシキギのそばにあって今まではその存在すら意識できなかった木である。ニシキギの落葉と時を同じくして、今その存在を誇らしげに人の目に飛び込む。

 

『祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす おごれる人も久しからず ただ春の世の夢のごとしたけき者も遂には滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ』高校生時代に暗記した平家物語の一節が浮かんでくる。ニシキギはあたりを圧倒するほどの色彩で秋の透明な光を浴びて輝いていた。それだけに今の様に寂寥と呆気なさを強く感じてしまうのだろうか。

 ドウダンの葉も数日で落ちるだろう。葉を落としたとき、私たちがふと気づくのは幹の太らせたわずかな成長と来春の葉芽をしっかり膨らませていることだ。瞬間惨めな姿になったときこそ次へのチャンスである。このことを平家物語が盛り込んでいるかどうか、私は知らない。この世が諸行無常であるとの真理と人間が本来持っている人生を常楽我浄にできる力は、決して矛盾するものではないとニシキギとドウダンが私に語ってくれているようである。

 今どれほど勢いがあり、たくさんの人が取り巻き、多くの人にうらやましがられ、それゆえに周りの人々を睥睨し、小ばかにしても所詮、後継の人を大切にしなければその後は哀れである。池波正太郎の「真田太平記」に出てくる滝川一益という武将がいる。一益は織田信長の命で真田昌幸の居城沼田城を受け取りに来た。その時、一益は「みじんも勝者の驕りがなかった」という。武田家に仕えているために悲運に見舞われた真田昌幸に向かって、「このたびはさぞご心痛のことでござったろう」と温かく声をかけた。命のやり取りをする戦国の戦の結果に対して、自分の有利を笠に着ない態度をとることはなかなかできることではない。それだけに勇将と智将はついには敗れても、人の気持ちを大切にする智勇兼備の賢将は敵味方にかかわらず、尊崇の念を持たれた。人の命が毛ほどに軽かった時代であり、勝者がいつ敗者になるか分からない時代だからこそ、人倫をわきまえた武将の下に人が集まったのだろう。

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シャリ、シャリ

窓(H19.10.31NO55

 

シャリ、シャリ

 

地下鉄の階段を登り表に出た。いつも通る路を歩き始めると足下で「シャリ、シャリ」と音がした。なぜかとても懐かしい音だ。見ると大人の手ほどの大きな枯葉が数枚足下にある。ユリノキの葉である。形はカナダの国旗にある楓の葉に似ている。空を見上げながら歩いていた私の足に枯葉が砕かれた時の音であった。

 

ユリノキはモクレン科の落葉高木で、原産地は北アメリカ。私のそばで見上げるばかりにそびえている。英名はチューリップツリーというから、名にふさわしい花が咲くのだろう。今、葉々が品の良い黄色に輝いている。

 

音を懐かしく思ったのは少年期に長靴を履いて雑木林の中を遊び歩いた記憶からなのだろう。「カサカサ、シャリシャリ、パッリパリ、コソッコソッ、シュシュ、ココココ・・・・」落ち葉を踏みしめるといろいろな音がでる。自分がまるで大男になったような気分で雑木林をゆっくり歩く。「カサカサ、シャリシャリ、パッリパリ、コソッコソッ、シュシュ、ココココ・・・・」夏までは木々の上で音がしていたのに、今は自分の足下で音がする。夏までは見上げても空は、葉々で遮られて見えなかった。秋は雑木林の中にいても空は間近に見える。私は秋の雑木林で巨人にすらなった。

 

「ココココ」は木の実が葉の上をころげ地面に落ちる音だ。落ち葉をそっと退けてみると、落ち葉の下に、淡いオレンジ色の傘のようなものがある。よく見ると、ドングリの実が堅い殻を破って、地面に根を這わせている。クヌギやカシなどの落ち葉の下だと、ドングリは雪や寒風にさらされない。寒風と朝夕の凍てつきも和らげてくれる。ドングリの実は、落ち葉にくるまれ、春には腐葉土となった葉々を掻き分けて一足早く芽を出し始める。落ち葉は命をはぐくむ布団の役目を果たしている。

 

私の師匠は「だれよりも『知恩の人』『報恩の人』でなければならない」と指導してくださった。恩はドングリにとっての落ち葉のように見えてくるものではない。こちらが心で感じ取るものだ。心の感度を研ぎ澄ましてこそ・・・。シャリシャリ。落ち葉を踏みしめる私、空を見上げる私、歩道のユリノキの枯葉は私を一瞬無垢にしてくれた。

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前後の影

窓(H19.10.NO54

 

「前後の影」

 

4分音符をさかさまにしたような外灯がまっすぐに続いている。外灯が続く路の行き着く先は暗い群青色の空である。外灯に近づくと私の後ろにある影は少しずつその身を短くする。外灯そばを通り過ぎた瞬間、影は私の前に突然現れる。そして私が歩くスピードに合わせその身を大きく伸ばす。

 

私の後ろに前に短く長く入れ替わるように影が変化していく。そんな影を眺めながらだいぶ歩いたように思う。自分は歩いているここにいる自分だ。自分の長さは変わらない。背伸びをしようが、身を縮めてわが身を偽ろうとわが身の実態は変わらない。今までの自分はそれがなかなか分かっていなかったように思う。社会の役割としての自分を装うこと、演じることが必要であった。しかし、自分を装っても演じても自分というものとの葛藤が続いていた。そして、仮の自分さえも全うできず、自分らしさに回帰しながらもまた仮の自分を祭り上げる。私の後ろに前に短く長く入れ替わるように変化する影が、今までの自分を象徴するように思えてくる。

 

35年間の仕事から退職し、新たな職場を得た私は今自分を振り返っている。35年間は燃え上がるような目的感と使命感が私を包んでいたように思う。実際は眼高手低ではあったろう。それでも自分がせねばならないことに真剣に立ち向かってきた。しかし、現在眼前で変化する影を見て心に感じることから見ると、私は今自信喪失状況なのだろう。退職後新たな職場を得た人間がたどる心の変化であることはわかっている。

 

今朝、勤務する事務所近くで「ニシキギ(錦木)」の赤い実を3個見つけてポケットにしまった。ニシキギの実は小さな殻を二つに分け、中から真っ赤な実が二つ顔を出す。すでに葉は唐紅から紅へ、そして茜色に染まっている。60年間の人生で私もまだらではあるが紅葉の季節である。小さな実もどこかに付けているのだろう。まだまだ夏炉冬扇とは言われまい。閑雲野鶴の時まで粛々と歩を進めることにしよう。ポケットの実は帰宅したら植木鉢にそっと蒔くことにした。

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秋の色

窓(H19.10.28)NO5

 

「秋の色」

 

朝焼けと夕焼けの美しい季節になった。午後四時ころからくっきり晴れた秋空の青色が白いレース一枚に覆われた色になっていく。その空に浮かぶ雲が夕日に照らされて一部薄く桜色に変化する。和色でいうさくらねず(桜鼠)色である。桜鼠色は、また徐々にときねず(鴇鼠)色へと変化する。そして紅藤色へと柔らかい雲を彩り始める。その変化は一瞬である。次に今までの青色を基調とした色から黄色を基調にした色に変わる。蜜柑色から橙色へと、そして朱色の空になるのは間近である。

 

「季節の中で最も彩り鮮やかな時は?」と聞かれたら春夏秋冬のうちどれを選ぶでしょうか。今まで何かと忙しさにまぎれていた私にはそんな設問さえ頭に浮かんでこなかった。このごろはじっと空を見上げたり、一本の木にこだわって数ヶ月毎日観察したりする心の余裕と時間ができた。私の答えは今までは「やはり春でしょう」だったに違いない。しかし、今はなんと言っても「秋」という答えになる。

 

まず空の色は秋が最も彩が多いのではないだろうか。春の木々の緑はじっと観察すれば多様な緑色を持っている。しかしその違いはそう多くは無いように思う。秋の木々の葉の変化はそれは劇的であり、多様である。「ニシキギ(錦木)」は秋の紅葉を楽しむ木として名高いが、私が毎日一服するために立ち止まる小公園に植えてあるニシキギの日々の彩の変化に思わず「ほ~~~!」と声が出る。黄色から深紅に染まるまで少なくとも510色といってよいほどの色に変化する。刮目してもう一度見るほどの変化である。和の色事典で名前を調べようとしたが赤色だけでもあまりの数におどろいてしまった。「色の名前事典」http://www.clovernet.ne.jp/~shouchan/iro/iroziten.html で緑色は36色、赤色は62色が紹介されていた。

 

藤沢周平の作品を読むと色彩名を直接記述していないが、文章から色が見えてくるときがある。それも多様な色である。周平は山形県生まれ、当地の教職にも着いていた。文章に多様な色彩をちりばめるのは、彼が東北出身であり、秋の多様な彩を幼少から眺めてきたからではないかなどと勝手に想像している。

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秋風も

                               窓(H19.10.17)NO52

                                      「秋風も」

  頬をひやりとさせる風が通り過ぎ、街路樹の上まで這い登り水分の少なくなった葉々をこすり合わせてかさかさという音をたてている。水分を含んだ薄黒い瘤を膨らませた雲が無数に空一面を蓋っている。南の空のわずか一角だけまだ明るい勿忘草色の切れ間がある。昨日までの抜けるような秋空が、今日は冬の空の顔を演じている。

   地下鉄駅前の公園の椿の実は大きく三つにわれ、種が飛び出して下に落ちたようだ。種を探してみたがなかなか見つからない。きっと「落地成根」となるのであろう。椿の殻にくっついている種を一個だけいただいた。実をポケットに大切にしまった。

  自宅の玄関脇に30年前に植えた楓の木がある。楓の実には、翼がついている。冷たい風が吹き始めるとその風に乗ってくるくる回って落ちる。落ちた先がプランターだったり、植木鉢だったりすれば次の年はそこから発芽し、双葉となり、2,3年後には20センチにも30センチにも成長する。我が家ではそれを鉢植えにして楽しんでいる。椿の実をさっそく小さな植木鉢に埋め込んだ。来春が楽しみである。

  桜の仲間で実生で育つのは、山桜、彼岸桜、大島桜の3種類だけだそうだ。これ以外の桜は接木をしなければ育たない。ヒマラヤをルーツとする桜が日本で自生するまでどのような歴史があったのだろう。気が遠くなるほどの年月である。虫や鳥、風や人間が創り上げてきた見事な自然という作品としか言いようがない。

  樹木の葉のこすれる音で来る冬を知らせる秋風も薄黒い雲も雲の裏側で輝く太陽も、今、感じたり見たりしている自然を創る担い手なのだと思うとなぜか歓びが胸にふっと湧いてくる。

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薔薇の実

窓(H19.10.12NO51

 

薔薇の実

 

薔薇の実が熟している。3個・4個・5個の実が1cmほどの細長い楕円や横に長い楕円の提灯の形をして一つの枝先からぶら下がっている。

勤務する事務所の隣のお宅の庭先である。春から夏にかけて数えただけでも12種類の薔薇。しかも道路側から見える二階の壁まで花房が這い登ろうとするほど咲いていた。小さな薄桜色の薔薇の花がそのお宅の壁面を被い尽くし、春の光をそこだけ桜色に染めていた。それが10月の声を聞くと実を付け始めた。こどもの小指第一関節から先ほどの大きさである。実は梔子(くちなし)色となって壁を飾っている。赤ん坊の握りこぶしほどの薔薇の花も咲いていた。蒲公英(たんぽぽ)色といっても良いほど鮮やかな黄色の花であった。今、その花の実は唐紅色に輝いている。

 

秋の日差しは空の雲の動きに合わせて時には強く、時には夕暮れの淡い光となる。変化する日差しの中でも薔薇の実は表皮の光沢のせいか輝きを失わない。

 

今年11月30日で10年間続けた民生委員を退任するという方にお話をうかがった。

「訪問を断られても誤解されてもその人の生活を気にかけ続ければ、3ヶ月、半年、そして1年後に訪問すれば、家に上げてもらえるようになる。相手にとって良かれと思っても、民生委員の考えを押し付けてはいけない。相手が自分から結論を出せるまで待つことだ。話を弾ませるため相手が旅行好きだったら自分も相手が行った所に行ってみる。そんな努力もするんだよ」

 

 白髪も薄くなったその民生委員さんは、過去には社会的に大きな仕事をされた方である。見上げるほど数多い花を咲かせた方である。今は薔薇の実のように、周りがどんなに変わろうとも人柄という光沢はいささかも光を失わない。その方は、「忙しいのに付き合ってもらって悪かったね」そう言い終えて事務所を出て行く。その方より15歳も年の若い私にも30歳も40歳も若い事務所の職員にも丁寧に辞儀を残して出て行かれる姿に私は、思わず礼を深くした。

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指定避難所の鍵が開かない

窓(H19.9.28NO50

「指定避難所の鍵が開かない」

 

 9月19日、区内でボランティア協働係長を招いて、災害ボランティアセンターについて講演をしていただいた。小地域ネットワーク活動研修会を開催した地区社協の企画である。集った参加者は73名。一つの地区の研修会としてはかなりの人数である。この地区は以前から防災意識が高く、この地区社協エリアのある町内会は、一人の高齢者に対してボランティア4名程度が災害時に駆けつける制度を3年がかりで確立し、河北新報にも紹介されたことがある。

 

 講演の最後で中越沖地震の被害をスライドで紹介して下さった。講演が終わると早速質問の声が上がった。「日赤、消防、社協など災害時に活動する諸機関の連携が図れるようなシステムが出来ているのか」「各機関のコラボレーション(共同作業)が重要と考えるがどうか」「中越沖地震のとき、各機関の連携状況を聞かせてほしい」など真剣に質問に立つ。

 

 また、災害に特化したボランティアコーディネーター養成を積極的に行うようにとの要望も出された。参加者の中には、地区住民の要望を取りまとめ、災害ボラセンに伝える役割を事前に町内で明確にする必要性を述べる方もいた。参加者の真剣さが伝わってくる研修会であった。

 

 さて、各機関の連携が重要であることは論を待たない。事前に考えられる課題を想定して連携を進めておくことは大切である。しかし、自分たちの力では出来ない、何とかしてほしいとの声を上げることによって、その課題を解決するためのコラボレーションが生まれることがある。明確な課題がある場合、コラボレーションが有効に機能する。

 

 ところで、地震発生時は、①自らの命を守る ②近隣の要支援者の安否確認 ③余震を避けるために近くの公園などに避難する ④指定避難所に避難する の流れになる。ここから先をまだ訓練していない段階ではないか。⑤誰が体育館の鍵を開けるのか ⑥体育館の使用割当は誰が指揮を取るのか ⑦避難してきた人の人数確認と避難者の現在のニーズ把握は誰が行うのか ⑧避難所内で課題が発生した場合、どんな仕組みで解決していくのかなど指定避難所運営訓練が未実施である。

 

  そこで、仙台市では指定避難所になっている学校などに避難所開設マニュアルが配布されている。体育館を開錠したり、当座の避難所運営を行ったりする市職員(指定動員)も明確に配置されている。しかし、それを住民は知らない。指定避難所の長は連合町内会と連携し、指定動員との顔合わせや、緊急物資の備蓄状況を見学させる必要がある。時には、トイレの設置訓練などにも協力すべきである。指定避難所になっている多くが公立学校である。学校長が積極的に地域住民と話し合いを持つよう努力を望む。真冬夜間に地震が発生し、指定避難所に行ったが避難所の鍵が開かず外で長時間待たされる。そんなことが無いように願いたい。

 

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明るいのが、い~~い!

窓(H19.9.14NO49

「明るいのが、い~~い!」

 

8月28日(火)バスの窓からとあるコンビニエンスストアーが目にとまった。いつも通る場所なのだが今日はいつもと違った雰囲気があった。それは何本かののぼりが店の前に立てられたからである。「おでん」「中華まん」の幟(のぼり)である。クールビズ姿でネクタイを締めないことを満喫していた私は少々驚いた。もうそんな季節になるのか、6時20分だというのに太陽は西の山の端に近づくにはまだまだ時間がかかりそうなのにと思った。

 

9月7日(金)帰宅のバスで妻と一緒になった。バスの中には会社帰りの若い女性が数人乗っていた。一人はノースリーブのシャツを着て、持っているハンカチで顔に風を送っている。高校生は白いシャツの胸ボタンを二つはずし、ネクタイの結び目を胸元まで引き下げ、それが紐のようにぶら下がっている。バスの冷房は確か効いているはずである。まだまだ暑い日が続いている。

 

妻と一緒にバスを降りた。私がバスを降りる停留所は団地で最も高い場所にある。西に連なる山々が良く見える場所である。この場所から夕日が雲を茜色に染めながら山の端に沈む様子を毎日のように堪能してきた。しかし、今日は夕日がとっくに沈み、自宅に続く道は残照のせいかぼんやり私の前から延びている。妻が「暗くなるの、いやだ~~ぁ」「明るいのが、い~~い」女子高校生のイントネーションをまねて言う。

 

春は日の光が先行する。よく言われる「光の春」である。外はまだ底冷えして気温は上がらず、風はまだまだ冷たいのに日の光だけは春の到来を私たちに告げる。秋は太陽が沈む時刻が早まることで秋を予告してくれているようだ。薄暗くなった自宅への道を「明るいのがい~~い」とふざけ半分に言う妻の声を何度も聞きながら、今は太陽よりもコンビニエンスストアーが次ぎの季節を知らせてくれる。季節を俗っぽいもので感じるようになったものだと独り言ちた。「猫が夜近づいてきて秋が来た」(毎日新聞川柳)。今夜あたり我が家の猫はどうするのだろう。

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窓(H19.9.13NO48

 

「蜂」

 

蜂に刺された。生垣に取り付いている葛や山藤を取り除くために敷地の南側で雑草を刈り払っていた。刈り払いも一段落しそうになった頃、塀の脇に60cmほどに伸びた柘植(つげ)が目に入った。昨年も一昨年も生えていることは分かっていたが切り倒さずに放置しておいた。しかし、今年ばかりはこの柘植を切って今日の刈り払いを終了しようと思った。柘植の木の上部を左手で引き、右手に持った鎌で切り倒そうとした私の目に入ったのが、直径5~6cmほどのキアシナガバチの巣である。瞬間左手を離し私は後ずさりした。巣から2メートルほど離れた。巣から一斉に蜂が飛び立つことはなく、ほっとした時、一匹の蜂が一直線に私に向かってきた。私の目の高さである。振り払おうとしたが慌てていた。蜂は私の額に思いっきり体当たりをくれた。バチッという音がした。刺すというより体当たりである。しかし、単に体当たりだけではなかった。私の額に激痛が走った。

 

刺された場所を思いっきり爪でつまみながら家に駆け込んだ。後頭部や首筋まで経験したことのない痛みがはしり出した。体からは焦りのせいか汗が滴り落ちる。自宅には蜂に刺された時の薬など常備はしていない。しかたがない。蚊などに刺された時の痒み止めをとりあえず塗った。妻が蜂刺され対策をインターネットで調べた。「玉ねぎをすったものを塗ると良い」「純粋な蜂蜜を塗ると良い」妻がマウスを動かしながら言う。痛みは継続し、広がる気配だ。妻は「ショック状態になったら病院だって・・・・」「要するに冷やすしかないみた~~い!」私は、額を大きく腫らしては明日から勤務先を休まなければならないだろうとか、救急車を呼ぶのは大げさだとか、確か蜂はスズメバチではなかったとか、休日医を調べて電話をしようとかさまざまな事が頭の中を駆け巡る。

 

薬箱の中に発熱時用の冷却材が目に入った。「10時間用、気分転換やリラックス効果あり」との効能である。何でもいい、ひとまずこれで刺された場所を冷やすことにした。汗は滴り落ち、止まらない。

 

刺されてから30分経っただろうか。汗も引き、痛みも落ち着き始めた。その後私がハチ毒について調べてみると、アナフリィラキシー(急性アレルギー症状・・・死に至る事がある)が現れるのは刺傷後15分以内と分かった。特に腫れも拡大していないようだ。冷却材を額に当て、その上から鉢巻をした。その姿を見た妻が、「刺されるのが2回目になると死ぬかもよ~~」と脅す。たしかに一度蜂に刺された人は、アレルギーの検査を受けるようにとの記述もインターネット上にはあった。

 

痛みが落ち着いたころ私は、身を賭して巣を守ろうとする私を刺した蜂のすさまじい姿に感動していた。私をめがけて向かってくる蜂のスピード。私の目を標的にすること。刺すことで蜂自身が死を迎えることなど。刺された瞬間のスローモーション映像を頭の中で何度も再生をさせながらぼんやり考えていた。

 

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楽天イーグルス

窓(H19.9.11)NO47

 

 「楽天イーグルス」

 

 台風一過。一面の青空である。空の青さを一層きわ立たせるために浮かんでいるかのようにわずかの雲が浮かんでいる。軽やかな雲の周りは真新しい綿をちぎったように毛羽立っている。一週間以上曇りと雨だったためか、今朝の青空はとりわけすがすがしく感じる。

 

 すがすがしく心浮き立つ理由がもう一つある。プロ野球観戦に今日行くのだ。やはり本物をこの目で見るのとTVで見るのとは全く違う。選手の顔も各種データも球団の調子もTVでは詳細に解説してくれるが、野球場では大型スクリーンに選手の顔写真と打率が10数秒映し出されるだけである。打席に立つ緊迫した選手の表情はもちろんうかがい知れない。しかし、投手が146キロの球を投げるそのスピードは実感できる。打者ごとに、そして何塁上に選手がいるかによって守備位置を変える野手の動きの巧みさも実感できる。時には身の危険を感じさせるほどの勢いで迫ってくるファールボールも野球場でしか実感できない。

 

 今日、楽天が迎える敵はロッテである。私は試合開始2時間前に早くも家を出発した。

河北新聞の2005年10月19日の河北春秋で今日の敵ロッテについて触れている。

「プロ野球ロッテは1972年、東京スタジアムが閉鎖されたことで本拠地を失った。翌年から5年間、県営宮城球場を中心に各球場を転戦した。本拠のない悲哀を人はジプシーと呼んだ。(中略)ジプシーが災いし、人気は長く低迷した。史上ワースト、18連敗の記録を持つ。それがどうだ、バレンタイン監督の采配配(さいはい)はボビー・マジックとたたえられ、「世界一のファン」で球場は沸き立つ 。判官びいきの血が騒ぐ。世の中こうでなくちゃねぇ。盛者必衰。敗者復活。」(以上引用)

 

 強くなったロッテに楽天は1回目から点を取られ、毎回のようなヒット攻撃を受けて、あれよあれよという間に10点を献上してしまった。楽天は2点をやっともぎ取ったものの試合終了。しかし、試合終了後はどこかのファンと違って、監督に生卵をぶつけるなどという無礼は働かない。かつて宮城球場を本拠地にした今は敵のロッテの応援のすばらしさをたたえる声がそちらこちらで聞かれ、また生のプロ野球を我々宮城の人々に見せてくれたことに感謝する声も聞かれた。東北人は楽天の勝利をじっと待つくらいの度量を持っている。だから相手を称え、感謝する気持ちも忘れないのだ。盛者必衰。敗者復活・・・・・と自分に言い聞かせて、青空がいつの間か夕暮れにかわってきた球場を後にした。

 

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イコールフッティング

窓(H19.9.10NO46

イコールフッティング

「イコールフッティング」という言葉が福祉関係の情報誌に時々登場する。競争条件の同一化とか平等な市場参入条件という意味である。そこでこの言葉がどのように使われているか調べてみた。

〇郵政事業民営化に伴って

・・・「民間とのイコールフッティングの確保」  

〇イー・アクセスの千本倖生・代表取締役会長兼CEOの発言

・・・「新規事業者は既存事業者に比べて割り当てられる周波数帯などの点からイコールフッティング(平等な市場参入条件)にならない」

平成17年全国厚生労働関係部局長会議資料

・・・社会福祉施設職員等退職手当共済制度の見直しについての中の「公費助成の見直し」項目に「介護保険におけるイコールフッティングの観点から、介護保険制度の対象となる高齢者関係の施設・事業の職員について、国及び都道府県からの公費助成を廃止する」

 8月27日の福祉新聞論壇で桃山学院大学坪山孝教授が、「新しい公共を担う事業体として活動することがイコールフッティング論を克服する道ではないだろうか」として、大阪府社協が会員拠出による基金を設け、生計困難者に対する生活相談及び経済的援助を行う社会貢献事業を紹介している。

 ある新聞のコラム欄によれば、江戸後期、

大分県日田市

に私塾「咸宜園」を開いた儒学者の広瀬淡窓は、身分社会の時代にあって、「年齢」「学歴」「身分」のすべてに関係なく門戸を開き、入門後の勉強によって優劣を決めた。これを「三奪の法」という。その結果、大村益次郎、高野長英などの人材を輩出。同園には、全国66カ国から約4800人の塾生が集った。封建制の枠組みを打ち破り、競争意識を導入することで、維新の人材をはぐくんだといわば、人材育成のイコールフッティング効果を紹介していた。

 組織も同じであろう。不平等な条件では優れた組織は生まれない。変革期にある日本にとって競争条件の同一化は時代の要請のようである。しかし、ここで忘れてはならないものがある。「何のため」である。何のために競争するのかが忘れ去られれば、勝ち残っても社会は認めない。

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あなたは大切な人

               窓(H19.9.7NO46

「あなたは大切な人」

 

「私の病気はもうすぐ良くなると言われたんだ。でも病気が治ったら、病気の前と同じ出来事が起きるんじゃないかと思うと嫌だ。だから病気が治っても生きていけない気がする」電話の向こうから聞こえてくる教え子の声。声は1年前にあった時よりだいぶ輪郭がはっきりしている。快復に向かっているのがわかる。病気の最中は現実を見ないですんだ。快復に向かった今、目の前の現実と過去の出来事という大きな壁に前に進めない教え子。「音楽だけが私を表現できるただ一つのことだし、音楽活動だけは続けて生きたい。でも生活のこともあるし・・・・」「病気の最中も音楽活動は続けた。それしかないから。でも周りの人には病気なんて嘘だと言われてしまうし・・・・」

 

彼は自分の尊厳を踏みにじられた過去を持つ。これからも自分の尊厳をいつ踏みにじられるか知れないという恐れ。周りの友人は才能を高く評価している。純粋な心をもっていることを知ってくれている。でも彼は自分では自分を評価できない。帰国子女の彼は、日本に帰国してすぐいじめに遭ったという。電話の向こうから伝わってくる苦悩に私は絶句した。目の前の音楽にすべてを燃やし尽くすことに夢中になりなさいとしか言えなかった。過去に教え子の尊厳を踏みにじったやつは鬼畜だ。彼は感性が鋭く、文章力は群を抜いて優れていた。今は詩を書き、作曲もしている。その詩には生きようとする叫びそのものが表現されている。自分の存在を大切に思えない教え子。教え子の人生を捻じ曲げたやつらが許せない。

 

私の義父は参議院選挙の投票に行かなかった。前回投票所で義母に「誰に投票するんだっけ?」と聞いた義父。投票所では声に出して政党名や候補者名を言う行為は禁止されている。前回は立会人の方から注意は受けなかったものの義母は、もう投票行為は無理なのではないかと思い、今回どうするか本人に聞いてみた。義父は「行かない」と言ったという。義父の胸にどんな思いが今あるのだろう。社会人として自己の存在に区切りを付けていいのだろうか。メモを持ってもいいだろうし、手に書いて行ってもいいだろう。それも止めて投票という行為を放棄してもいいとなぜ決断したのだろうか。高齢者の社会人としての存在、いや基本的人権をどう保障してやったらいいのだろうか。私は投票結果の写るTVをぼんやりながめながら憂鬱だった。

 

教え子と義父。どちらも一方は周りの人間から、また一方は高齢ゆえの記憶障害から人としての尊厳を守れなかった。「これからは人権をどう守るのかを競争する時代でなければならない」と喝破した識者がいた。「あなたは大切な人」だという周囲の心と社会としての保障が人には必要だ。自分の存在価値を見出せなければ生きるのが辛い・・・・・・。

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睡  蓮

窓(H19.9.3NO45

 

「睡  蓮」

 

今年度も健康診断が始まっている。受付が終了してから大変手際のよい流れで、2時間もかからずに終了する。胃検診時に飲むバリュームも以前に比べたらずいぶん飲みやすくなってきた。数週間後、検査結果が手元に届いた。健康診断結果通知書には、基準範囲以外の数値は、軽度有所見、要経過観察、要精密検査、要医療の四段階で結果が示される。そればかりか、検査項目ごとに◇、○、◎、●などの判定記号も記入されている。何度ながめても昨年度に比べ、基準範囲に戻った項目はない。

 

2007年8月31日発行の「厚生福祉」(時事通信社)によると、日本人間ドック学会が昨年人間ドックを受診した人のうち、「異常なし」と判断された人の割合が11.4%で、1985年以来最低であり、05年の12.3%を下回ったと報じている。肝機能異常、高コレステロールなど生活習慣病に関連する項目に異常が見られた人が25%前後と目立っているとも書いている。同学会では「職場などでのストレスが生活習慣を悪化」させているのではないかとしているという。

 

市社協の会議に出席すると、いつも市社協が入っているビルの前庭に立つ。前庭は和風庭園になっている。その場所がしばしの憩いを提供してくれる。大きな池を囲んでさまざまな樹木が配され、池を渡る橋まで架かっている。8月に入ってその池に睡蓮の花が咲いた。白、ピンクそして白い花びらの先端だけをピンクに染めた花、強い日差しを樹木の日傘で避け、水面に浮かぶ花姿はストレスも吹き飛んでしまうほど心を癒してくれる。

 

ストレスは無ければ良いというものでもない。前に進むためには必ず顔に風が当たる。弱風ならまだよいが、時には烈風もある。それは自分を見つめたり、新たな自分を形成したりする機会となる。しかし時には癒されたいと思うことはある。

 

睡蓮の花言葉を調べてみた。純情、純粋、清純、信頼、信仰である。なるほどと納得した。我執と悋気を洗い流してくれるはずである。

 

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本人主体

窓(H19.8.22NO44

 

「本人主体」

 

福祉新聞(平成19年8月20日号)「福祉士リレーずいそう」に大阪府の広瀬雅典さんが寄稿している。広瀬さんは「『そういう制度になったから』『こういうサービスがあるから』とサービスや制度ありきの支援『援助者の私主体』の支援になっていないか」と自らに問いかけている。広瀬さんは「こちら側の論理で“援助”しようとしていた私に対して、子どもたちからは、時には私の人格を根底からえぐるようなストレートな表現で、高齢者の方々は人生の大先輩として諭すような表現で、それぞれの『本人主体』を貫こうとする気持ちを伝えてくれました」と書いている。そして「『本人主体』の原点に返り、支援を求めている方々の言葉にしっかりと耳を傾けたい」と決意している。

 

相手の話を聞くことは人間関係の基本であるが、意外とそれができていない場合がある。相手の話の途中で勝手に結論を推測して答えてしまったり、一方的に自分の思いを述べたりしてしまいがちである。広瀬さんは、その人を知ろう、受け止めよう、それが支援者としての原点だとしている。

 

ある新聞のコラムに「“聴くことの力”を研究する大阪大学の鷲田清一教授は、ある人生相談の担当者の言葉に注目した。『……と言うのですね』。こたえる言葉の3分の2が、相談者の言葉の反復だった。相談者は、自分の一つ一つの言葉に関心を示す担当者の態度に、喜びを感じる。他者に受け入れられている自分の存在を感じ、安心を抱くのだ」とあった。

 

支援者が「私主体」で関わろうとすることはその人の人生を受け入れないばかりか、尊重すらしないことになる。仏法では「みんな違って、それでいい」という考え方を「桜梅桃李(おうばいとうり)」と表現している。支援を受ける人たちは、桜が桜らしく生きるために支援をしてほしい、梅が梅らしく生きていくための支援をしてほしいと望んでいるはずである。

 

「自分が桜であるにもかかわらず、その自分の尊さに気づかずに、何とか梅になろうとすることがある。人類の多くの嘆き、悲しみも、ここから生じているのではないでしょうか」とロシア科学アカデミー東洋学研究所のヴォロビヨヴァ博士は述べている。私たちも広瀬さんの思いを我が思いとし、更に自分らしさを発揮した人とのかかわりを実践したいものだ。

 

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紀香さんのコメント

窓(H19.8.21NO43


「紀香さんのコメント」

 

「小学校などで今回のような見学をカリキュラムに取り入れることは出来ないのかしら。見学してみると、今、血液を必要としている人たちが待っているところにこんな手間をかけて丁寧に処理されて、届けていくんだということが実感できました」赤十字広報特使を務める藤原紀香が東京都血液センターを見学した際のコメントである。(赤十字新聞第807号)

 

 藤原さんの子どもたちに伝えたいという素直な感想である。しかし、このように小学校のカリキュラムに取り入れたらよいのではないかということが、山ほどある。緑化教育、金銭教育、福祉教育、国際理解教育、歯の衛生教育、食の教育、健康教育、環境教育、エネルギー教育、安全教育など等が小学校で行われている。指導方法としては、各教科でこれらに関連すると思われる教材を指導する際、特に取り上げて1時間から数時間指導する。教師の教材研究は多岐にわたり、消化不十分なまま指導に当たることも多い。国語や算数という教科以外にこのように多岐にわたる指導をしていけるのだろうか。

 

 小学生時代から教えていくことにより、緑を大切にし、お金を大切にし税金をきちんと払い、社会的弱者に思いやりを持ち、各国の価値観の違いを理解し、歯の構造を知りよく磨き、食の安全に関心を持って・・・・・・・そんな国民をはぐくみたいのはよく分かる。しかし、このように時代の課題を背負った教育を次々学校に押し付けていいのだろうか。自分たちの組織を使って次代を担う子どもたちにどう伝えていくか知恵を絞ることを忘れてはいけない。気安く「小学校のカリキュラムに入れたら」というが、学校は自動販売機ではない。何がしかのものを入れれば、それなりのものが下からガチャンとでてくるというわけにはいかない。

 

宿題さえさせられない家庭、あいさつも食事のマナーも皆無の家庭、そんな家庭教育まで学校でするようになった現状をどう考えるのだろうか。家庭ですべきことは何かをきちんと言える社会でなくてはならない。家庭ですべきことまで政府が口出しするのはどうかといった文部科学大臣がいたが、分別をわきまえた風な無責任さだとしか言いようがない。世間の人気取りであり、泥をかぶりたくない姿勢でしかない。確かに政府が家庭教育に口出しするのは問題もあるだろう。しかしそれなら行政の中に教育を置くことが基本的に問題にされなければならない。今の日本の教育の最高責任者は一体誰なのだろうかと問いたくなる。

 

基礎学力の低下は教員の質の低下によると言う輩がいる。本当にそうだろうか。今小学校は、市や県や国の一斉学力テストで評価されようとしている。学力向上は重要な課題だ。しかし教師が教科指導を通して、また児童生徒の人間的ふれあいを通して生まれる陶冶こそ最重要とされなければならない。学校教育が本当に目指さなくてはならないのは何か。教育の目的が問い直さなければならない。

 

 紀香さんは思ったことを素直に言っただけだろうが、赤十字新聞がそれを長く引用して記事にするとはひいきの引き倒しである。藤原さんの不見識を世間に知らしめる必要など何もないはずだ。むしろ日本赤十字社企画広報室の不見識が問われよう。

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待宵草

窓(H19.8.19NO42

 

「待宵草」

荒地待宵草が咲いている。夏の昼から咲き始める。今までも咲いていたろうにそれに気付かず夏の終わりになるとふと目に入る。ああ!夏が終わるなと思う一瞬である。厳しい残暑の中でしかも道端や団地の空き地に咲く。大待宵草や待宵草は夏の夕刻に開花し翌朝しぼんでしまう。だから日中人目を引くことは少ないのだろう。それに比べ荒地待宵草は昼から開花する花である。

 

 8月の中旬を過ぎるころ、私は焦燥感をいつも持つ。夏の特別な計画があったわけでもないのに、この頃になると計画したことが進んでいない、し終わっていないという気持ちが襲ってくる。これは私だけだろうか。そんな気持ちをいっそう強める役割をするのがこの荒地待宵草の黄色い花である。咲いている場所と時間と強い太陽、そして昨日咲いてもう白っぽくかれている花・・・そんなことが一層あせりに似た気持ちを強くさせるのかもしれない。

 

夏中Tシャツ1枚の生活をしていた私が、この頃になると浴衣を着てみようかと思う。夕刻汗が流れる気温でもなく、ふと足元を一瞬涼しげな風が流れると浴衣が着てみたくなる。庭のキキョウの花がいくつも咲いていくつも枯れて、鮮やかだった青紫の花びらが白っぽくなって幽霊のように垂れ下がってくる。待宵草も庭の端の方で咲きだす。浴衣を着て夕暮れの草草を見ると昼の焦燥感を癒すこともできる。

 

 浴衣は亡くなった母の記憶であり、現在も元気な義母の記憶でもある。母は夏になると私の浴衣の裾や袖の丈を下げるのを楽しみにしていた。去年の丈の浴衣を着せられ、母が裾の長さを決めると待ち針でとめていく。そんな瞬間はなぜかとても気恥ずかしいものだった。今着ている浴衣は義母が縫ってくれたものだ。これで何枚目になるのだろうか。縫う前に義母が私の体に尺を当てるときも同じように気恥ずかしいものがあった。浴衣はそんな思いも含めて秋が来る少し前の季節、私の心の焦りを鎮めてくれる。

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介護、人を尊重するとは・・・

窓(H19.8.17NO41

「介護、人を尊重するとは・・・」

 33年前に小学校56年生を教えた。夏季休暇で和歌山から仙台に戻ってきたその時の教え子と4時間語り合った。この子(といってももう40代だが)5年生の後半、バスで1時間以上かかる場所に転居し、転校せざるを得ない状況になった。しかしこの子は転校せずバス通学を選んだ。バス通学の苦労をものともせず1年数ヶ月後、私の学級から卒業していった。しかし、彼女は高校入試で大きな挫折を味わった。その苦しみの中でリストカットも経験した。しかし、高校1年生の担任に勧められ陶芸に打ち込んだ。勉強に打ち込んだ。そして、この高校開学以来始めての合格者となる看護専門学校に入学を果たした。

 介護のあり方についてこの教え子の看護師は熱心に語り始めた。はじめに話題にしたのは、介護を受けている方々を「○○ちゃん」と呼ぶ介護職員の介護についての考え方についてだった。いくら高齢になったからといって、20代の介護士に「○○ちゃん」呼ばわりされたらどうだろうか。介護を受ける方々は何十年社会に貢献してきたプライドがあるはず。「介護を受ける人の人間性を大切にするというのはその方の過去を尊重することではないか」と真剣に語る。そしてこんな例を教えてくれた。

 60歳まで病院で看護婦長をしていた女性が、退職後アルツハイマーになった。60歳代という若さでこの病気になると病気の進行が急速に進むという。この女性が病院に入院すると体力も衰え、寝たきり状態になった。入院している病棟の看護師たち(教え子の看護師はこのチームの一員である)が看護の方針を話し合った。その中でこの患者に語りかける時は必ず「婦長」というようにしようと彼女は提案した。「婦長!」「婦長!」と呼びかけると名前で呼びかけていた今までとは反応が少し違ってきた。数週間後「婦長」と呼びかけると体をゆっくり起き上がらせた。婦長さんはぼんやりして定まらなかった目の焦点が徐々にはっきりしてくる。起き上がれなかった体も看護師が「婦長」呼びかけるたびに自分で起き上がれるようになった。そしてある日、担当する看護師に「あなたそのやり方は違うわよ」と婦長さんの口調になって指導をはじめた。完全にアルツハイマーを克服したわけではないが、寝たきりの状態を脱し、自分のことを少しはできるようになったという。

 こんな経験を持つ彼女は、別の病院で若い看護師を指導する立場になっていた。その病院に大学で経済学を教えていたという60歳代の男性の入院を引き受けることになった。このときもこの男性を「先生」と呼ぶことにした。社会的な地位が高かった人が認知症とかアルツハイマーになるとその家族は、過去とのギャップが大きく病気の現状を受け入れ難いという。この男性の家族もそうであった。この男性の行動に驚愕し、いちいち非難した。男性は無口になり、アルツハイマーも急速に進行した。入院後「先生」と呼ばれ始めて数ヵ月後、「経済学の本を自宅から持ってきてくれ」というまでになった。「先生!私たち看護師にも分かるような経済学の講義をしてくださいませんか」との話に一番喜んだのはこの「先生」であり、家族であった。看護師たちは、ホワイトボードを用意した。小さい部屋だが講義室を作った。そして講義が始まった。「先生、どうか座ったままで講義をしてください」という看護師に、「いいえ、立ってやらせてください」と答えると、体を支えるサークルに寄りかかりながら、講義を始めた。講義を続けた「先生」が退院することになった。退院するその日、この「先生」は「今度いつ講義に来たらいい?」と看護師たちに聞いたという。

 「高齢者が過去を語ることは、脳の活性化につながる。自分の過去を周りの人間に尊重されることは、何よりも生きる喜びです」と彼女は熱く語る。聴いている私は、目頭が熱くなり、恥ずかしながら涙をこらえられなかった。彼女が大きな困難を乗り越えたこと、看護師として過酷な訓練に最後まで付いていったこと、彼女の人間としての成長に深く感動した。看護師として人を大切にするとは何かを真剣に考え実践していることに感動した。

 今度は私が介護や福祉について彼女から教えていただく番である。彼女が6年生の時、椿の実を私に渡してくれた。今私の庭で元気に育っている。

 

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自立支援

社会福祉情報紙を読む(NO402007.8.14

「自立支援」

8月1日付赤十字新聞は新潟県中越沖地震について特集している。「薬がなくなった!そこへ巡回診療チームが」「無医村で仮設診療所がフル回転」などの大見出しが躍る特集記事の片隅の囲み記事が気になった。

中越沖地震現場からの報告である。見出しに「被災者の自立支援までが日赤の役割」とあった。その記事は長岡赤十字病院救命救急センター長内藤医師の話を紹介している。

「日赤の仕事はあくまで被災者の自立支援です。至れり尽くせりの救護はかえって、生活不活発病の誘引にもなりかねません。刻々と変化する被災地の状況から縮小と撤退のタイミングをうまく判断していかなければならい」

 支援で思い出すのが、1997年1月2日に起きたロシア船籍タンカーナホトカ業油流出事故時の油撤去作業への援助物資である。日経新聞では「坂井市によると、事故後、重油回収用のバケツやひしゃくなどが全国の個人や団体から続々と寄せられた。重油が片付いた後も届き続け、結局、使い切れなかった分は市が国から購入した鉄筋コンクリート2階建ての倉庫に収納した。(中略)現在でもバケツ約500個、ひしゃく約2500本、ゴム手袋約1100組などが在庫の状態。期限切れの使い捨てカイロも約5000個残る。」とあった。

 支援をしよう、手助けをしようと思った方々は、手厚い援助を行うことが被災された方々のためになると思い込んでいたふしがある。相手の状況がどうであるかの前にあれもこれも援助すれば喜んでくれるのではないか、助かるのではないか、援助する側は自分の思いを優先した。

 あれから10年、新潟で起きた地震による被災者支援などを通して、支援のあり方が問い直されてきた。赤十字新聞の囲み記事に見られるように「自立支援」という考え方もその成果ではないだろうか。しかし、自立支援とは何かもより検証されなければならないだろう。

 この記事の中で内藤氏が「日常的に行政の関係機関や地域のみならず全国の病院などと顔の見える関係をつくっていく必要がある」と話したと紹介されている。「ここまで支援します。あとは自分で努力してください」が自立支援ではあるまい。自立できるように関係機関のネットワークづくりを進めることなくして自立支援とはいえないとの考え方であろう。課題を明確にした記事であった。

 

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攻  守

社会福祉情報紙を読む(NO392007.8.14

「攻  守」

8月13日発行福祉新聞の社説に「守りだけでは解決しない」と題してコムスン問題を取り上げている。厚生労働省の指導姿勢に触れ、「守り」とは不正を発見・排除するという姿勢であり、「攻め」とは安心して利用できる事業者がそれぞれの地域に十分存在するという状況を作り出すことだとしている。社説はその両方の車の両輪としてともに強化するべきだと主張している。特に「良いサービスをそれぞれの地域で主体的に判断し、事業者を育てていくことが求められる」ことを強調していた。

 8月7日発行の時事通信社の「厚生・福祉」では、新潟県南魚沼市立ゆきぐに大和病院名誉院長斎藤芳雄氏が新聞投書された方の意見を取り上げている。その意見は「企業には、利潤を追求するビジネス一辺倒ではなく、利用者の視点に重きを置いた介護支援体制を整備してもらいたい」というものである。

 福祉新聞は行政の姿勢を、斎藤氏は業者の姿勢を取り上げ、ともに納得いく論理を展開していた。今、介護保険制度成立によって、介護は医療と比べより市場的に位置づけられた。よって企業としての倫理観によって、その企業が提供するサービスへの信頼感が生まれるかどうか決まることになる。一方、企業として利潤を追求し、その利潤により質の高い人材を集め、サービスの質も高めることは、サービスを受ける側にとっても望むところである。

介護、医療は国民の人生にとって関わりなしというわけにはいかないものである。その点教育と同様に国民全体に影響があるものである。教育の改革が必須だとの合意がなされている昨今であるが、なぜ改革が必要になってきたのかが論議されていない。戦後60年、日本は足るべき衣食を求めてきた。しかし衣食足って礼節を知るという状況には至らなかった。コムスン問題がその象徴的姿に見えてくる。教育改革がなぜ必要になったのかの議論がこれからの介護制度のあり方に必ず参考となるだろう。

 現場で働くものを信頼することである。不信感による管理強化は現場の主体性を奪い、適切な判断力と創造力発揮を阻害することを忘れまい。

 

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福祉人材確保

社会福祉情報紙を読む(NO382007.8.13

 
「福祉人材確保」

  8月13日発行の福祉新聞によれば、厚生労働省が福祉人材確保指針改定諮問案を社会保障審議会福祉部会に示し了承されたと報じている。その概要は、

「福祉従事者のキャリア形成の仕組みを構築しつつ、それに見合った待遇に改善していくことなど労働環境の整備が新しい指針として了承された」

とのことであった。また記事によれば

「福祉事業への就業の動向としては、福祉・介護サービス従事者が93年当時に比べて4.6倍の324万人に増えている一方、他の産業に比べて離職率が高く給与水準が低い実態も取り上げている」

という。

  市社協主催の「夏のボランティア体験」をしている高校生の様子を見に行った。どちらも女子高校生。一人は2年生で一人は1年生である。高齢者を集めたサロン活動を手伝っていた高校生にボランティア体験を申し込んだ動機を訊ねた。「私の祖父の体が不自由で何とか手助けをしたいと思っている。そして将来は福祉の仕事に就きたいから」と答えた。もう一人は「父親に障害があります。だからいろいろな障害を持っている人を知っておきたい。将来は福祉の仕事に就きたい」という。二人とも特に学校の教師に進められたわけではなかった。原体験を持ち、それをもとに将来を展望して参加していた。

 この二人の高校生のように福祉の仕事に就きたいという意欲に満ちた若人がいる。8月の暑いさなかに3人の大学生が実習生として事務所に来ている。ともに社会福祉士の資格を取るためである。事務所はこの3人の元気でさわやかなあいさつで一日が始まる。このような青年たちが誇りを持って福祉の仕事に取り組めるよう、制度の見直しを早急に進めていただきたい。外国人労働者に目を向ける前に日本の意欲ある青年に希望を与えていくことが求められていると思う。

 

 

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和  顔

社会福祉情報紙を読む(NO372007.8.13

「和  顔」

 地下鉄で通勤するようになって4ヶ月が過ぎる。地下鉄での通勤にはある鉄則があると東京で3年過ごした愚息が言う。それは、間近の人を見ずに遠くに視線を注いでおくこと。そして、両手は必ず挙げてつり革を掴んでいることだそうだ。

  電車の中で視線を間近の人におくと、無粋に睨み付けられることが多く、朝から不快な思いをすることになるというのだ。確かにこの4ヶ月の間、愚息の言いつけを守らず、つい間近の人を何気なしに見てしまったことがあった。若い人であったが蛇蝎を見る如く私はにらまれてしまった。車内は全員無表情で視線はどこに置くわけでもなく、ただ流れる車窓の黒い壁を見るとはなしに見ている風である。またある人は瞼を閉じ、またある人はひたすら携帯を操作し、ある人は本に目を落としている。

  時事通信社発行の「厚生福祉」8月7日号のコラム欄「スコープ」に和顔・愛語と題した文があった。

「公園で子と遊ぶ親たちにも和顔が少ない。優しさが確実に失われているような気がする。(中略)児童虐待、子を道連れにした無理心中などの悲劇は、親子の絆が薄れたことによると思われる」「この薄れた絆を強める秘訣は、和顔・愛語の大切なことを子どもに語り聞かせることだ」

と述べ、笑顔の大切さをしつけようと提言している。

  小学校や中学校の校門に校長先生や生徒会役員が立って毎朝「おはようございます」と声をかけるあいさつ運動がマスコミに取り上げられたことがあった。そのような運動を根気よく続けている学校に敬意を表したいと思うが、どこか違和感を持ってしまう。私も中学校のとき当時の校長先生が校門に立っておられ、その門に近づくのがとても嫌だったことがある。自分から元気よく先生方にあいさつするのが当たり前と思っていた自分は、校門前に校長先生が立っていると、あいさつを強制されているかのようで嫌だった。

  私が教育の現場にいるときは、「会釈」を自分からするよう心がけていた。子どもが会釈を返そうと返すまいとかまわず私は会釈をした。「あなたは未来からの使者としてここにいるのです。次の時代を築く方々です。心から尊敬いたします」これが私の子どもたちに会釈をする理由であった。あいさつは大人の姿を見て自然に子どもたちが身に付けるものだ。まず大人がすることがしつけの基本だと今も思っている。

  さて、電車の中の私の顔は決して和顔ではない。大人の世界は難しい。ひたすら本に目を落としている自分である。

 

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肉親の情が発揮される町

社会福祉情報紙を読む(NO362007.8.11

「肉親の情が発揮される町」

  

仙台市の北部には3,000世帯から10,000世帯が住む住宅団地が開発されている。昭和50年代前半から開発が始まり、当時の勢いは無いが、現在でも小規模な開発がなされている。それまでの団地は住宅地と小規模なスーパーマーケットと病院、若干の店舗がセットされた町づくりが基本であった。しかし、最近では団地の中にケーキ、パンを取り扱いながら洒落たレストランも一緒にした店が開店し始めた。

  ふらっと立ち寄った最近開店したばかりのケーキ店兼レストランでは、窓辺でコーヒーを片手に読書をする奥様らしい人、ピザ一皿を二人で分け合って食べている品の良い老夫婦、ケーキを間に挟んで話に夢中になっている娘さん、2歳にもならない子どもを片手に抱いて午後のひと時焼きたてのパンで寛ぐ若いお母さん、祖父に寄り添うようにすわり、柔らかそうなパンをすすめている孫と思われる娘さんが憩っていた。そんな方々が集うレストランの窓は、前面すべてがガラス張りで明るく、ガラス面には中庭の木々がところどころやさしく日陰をつくっている。時間がゆっくりと流れていた。

  時事通信社発行の「厚生福祉」8月10日号に「T・Yさんが描く絵」というタイトルで常磐大学コミュニティ振興学部教授の藤田雅子さんが文を寄せている。

青森市の物産館で出会った親の介護に帰郷している定年直後と思われる方との出会いから文を起こし、青森で手に入れた小箪笥から栄枯盛衰を偲び、文をこう締めくくっている。

「代々親を看取ってきた伝統が崩れつつある。社会の連帯で解決する介護保険に期待するしかないにしても、老いの人生を豊かにするのは肉親の情だろう」

 
 今までの団地づくりは、生活するための機能性を重視してきた。これからの町づくりはどんな視点が大切なのだろうか。娘さんたちも若いお母さんも老夫婦も孫と一緒のご老人もいる町づくりは、人生の豊かさをキーワードにすることではないか。ゆっくり流れる時間を持った町には、若い方も老人も集うことができる。そして肉親の情も自然に発揮される町となるのではないだろうか。

 

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少年の夢の時間

窓(H19.8.8NO34

「少年の夢の時間」

  私は、市郊外で育った。国道から小道に折れ、7,8分、田んぼのあぜ道を通り、その後山坂を4,5分登ったところに家があった。隣の家といっても国道付近に数軒ある程度である。物心ついてから小学校3,4年生まではよほどのことが無ければ、坂を下りて国道までは行かない。だから一緒に遊ぶ友達は居ない。それでも寂しいことはない。家には猫と犬が一匹ずつ、山羊が5頭、鶏が50羽、おまけにハツカネズミが30匹もいた。家にいればこれらの動物が私と遊ぶのを心待ちにしている。猫は兄にいじめられて私の顔を流れる涙をなめて慰めてくれる。子山羊は私の背中に乗っかりたくてジャンプする。犬は私が投げてくれるのを待ちきれずボールをくわえて体当たりしてくる。鶏の世話は私の係りであり、餌づくりのための蜆(しじみ)割りやハコベ探しそしてもちろん毎日の卵拾いも楽しい。

 夕方は遊びほうけてはいられない。山羊を山すその餌場から小屋まで連れてくる、鶏の餌やり、ハツカネズミの餌やりと水の交換、それらが終わらなければ夕食のテーブルまでたどり着けない。相手は生きている動物たちだからである。

  そんな生活の中で私の最も待っている季節がある。それは夏である。私が心待ちにしているのは七北田川で泳ぐことでも、動物たちと遊ぶことでもない。百合の花が咲くことだ。20枚ほどの田んぼを縁取っている雑木林のはずれに、毎年20個も30個も花を付ける百合は、私が待っている百合ではない。家の近くの山裾に突然ある日一輪だけ花を咲かせる百合がある。風が吹けばゆらりと揺れる。真っ白いその姿は遠くからもはっきり見える。少年の私を手招きし、語りかけるように思われる。香りは私の体も心も包み、一瞬私を立ち止まらせる。百合との距離は10メートルぐらいだろうか。わたしはその場に腰をかけ、百合との語らいが始まる。何も具体的なことを話すわけではない。ただ百合の姿を見て語らっている気持ちになるだけなのだ。夏の一日、家族には全く知られていない夢の時間である。それは夏の初め一週間ほどで終わる短い夢の時間である。

  自宅を購入したとき、まず庭に植えたのが百合である。今、カサブランカが咲いている。

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10秒の時間調整

窓(H19.8.8NO33

「10秒の時間調整」

  バス通勤を始めて4ヶ月がたった。35年間自家用車で通勤した私にとってはバス通勤中の出来事は大変新鮮である。

  市内中心部はどうしても交通渋滞があり、時刻表どおりには運行できない。交通渋滞を織り込んだ時刻表になっているようだが、それがかえって仇になる場合がある。渋滞がさほどでない場合は時刻表より早くバスが停留所に着いてしまうことである。そこで時間調整をすることになる。時間調整は他車両の邪魔にならないことも大切である。よって決まった停留所で調整する。

  「1分半ほど、時間調整のため停車します」と運転手の声が車内に流れる。1,2分なら乗客は何も言わない。ある時「50秒ほどお待ちください」と車内放送があった。厳密だなと思った。バス利用者にとっては時刻表で表示された時刻より先にバスが行ってしまったら、不満は大きいだろうと想像できる。このバスが50秒後に発車し、5箇所目のバス停に止まったときである。「時間調整を10秒間いたします」との再度の車内アナウンスが流れた。

  「何!10秒だと!」私は思わず口に出してしまいそうになったが、言葉を飲み込んだ。私は1時間ほどバスに乗っているため、いつも本を持参しそれを読んでいる。しかし、その車内放送が流れたあとは、10秒の重さを考え、今まで夢中になっていた本を読めなくなってしまった。

  時刻表どおりの運行はどのようになされているのか?停留所で行う停車時間延長による調整、バスの走行速度による調整・・・。それ以外に方法が思いつかない。何せ不特定多数の車両が利用する道路である。どんなことが起きるか分からない。そして道路状況は毎日違うはずである。朝の出勤時に「このバスは、市内で起きた交通事故による渋滞のため16分遅れで運行しています」という車内アナウンスを聞いたことがある。そのとき私は「仕方がないさ、バスは遅れるのが常だから」と気にもとめなかった。

  しかし、10秒の時間調整に神経を使うのはなぜか。きっと市民による不平不満、非難が日々寄せられているからに違いない。台風で不通になった新幹線に対して、対応がまずいと平気で語る乗客がテレビに映し出される日本である。どう対応したにせよきっとこの人は対応がまずいと語る人なのだろうと思ってしまう。私たちの住む社会はもう「許容」という言葉が無い社会なのかもしれない。相手の非を見つけるとたちまち寄ってたかって声高に非難する社会なのだ。だから人とかかわりを持たないようにすることが安全であり、無口を決め込むことが身を守るすべとなるのだろう。「10秒の時間調整」は今の社会の怖さを実感させてくれた。

 

 

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窮 地

窓(H19.8.7NO32

「窮 地」

人間が窮地に立ったときどう行動するか。どう行動しても巷の非難中傷が続く。そんな時は打つ手がますます窮地を呼ぶのではないかと臆病になる。そうなれば打つ手が守りに入り、それは雪だるまが坂を転げ大きな雪だるまになるように非難中傷が大きく自分を取り囲むようになる。

  今、藤沢周平の小説を読んでいる。中堅どころの紙問屋が主人公である。自らの親切心が自滅への道に繋がる気配の中、同時に大店の紙問屋から難題を持ちかけられる。商売の危機と自分の老いと欲望が真綿で自らの首を少しずつ少しずつ締め付けていく。さて、まだ上巻を読んだばかりである。主人公は果たしてこの窮地をどう乗り越えていくのか、はたまたこの窮地によって自らの破滅の道へ進んでいくのか。下巻を読み始めたところである。

 さて、安部総理大臣は今回の参議院選挙大敗をどう乗り越えるのか、はたまた巷の声に押されて退陣するのか。大変興味深く、日々のニュースから目が離せない。かつて社会党委員長の村山富一郎氏を首相に担ぎ上げ、難局を乗り越えた自民党。そのようなトリッキーな手立てが出ないものだろうか。朝青龍はどう乗り越えるのか。窮地に立った人間のそのときに真価が問われるのだろう。私の目の前の事例をじっくり見て、学びたい。

 藤沢周平の小説の下巻を読み終えた。主人公である紙問屋は、自ら一代で築いたものすべてを捨てて、心許せる人妻と連れ立って江戸を去る結果となった。小説の書評ではハッピーエンドに終わったとあったが、窮地に立った人間の悲しい結末であることには間違いない。本当の意味で窮地を抜け出すことはそう容易ではない。

 

 

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七 夕

窓(H19.8.8NO35

「七夕」

 麻の葉、籠目、青海波(せいがいは)、霰(あられ)蜀江の錦(しょっこうのにしき)、紗綾形(さやがた)、菊立湧(きくたてわき)、網代(あじろ)・・・・・。

 仙台七夕を何年ぶりに見たろう。地元にいながら10年以上足を運んでいない。今年は職場からの帰りがけにしばらくぶりに時間をかけて見た。印刷技術がずいぶん発展したのだろうか。冒頭に上げた日本の文様を印刷した和紙を7~8cmに切って吹流しにしたものが多く見られた。肌に触れる吹流しは少しごわついた感じがする。和紙特有のやさしい肌触りではないことが少々残念ではあった。

 金賞、銀賞と貼り付けられている竹飾りは、日本の文様を印刷された和紙を吹流しにしながらも、吹流しの一本一本に更に手の込んだ文様を貼り付け、しかもそれぞれの配色がとても粋なものであった。流石と唸りたくなるものは彩と手のかけ方に違いがあるのだ。

 一本の竹飾りに吹流しがいくつ取り付けてあるか数えてみた。3個、4個が多く、5個以上取り付けてあるものは数少なかった。まだ仙台の景気は回復していないのだろうか。印象として、経済に勢いがあった当時に比べ、お金を掛けきれないもどかしさを感じた。携帯電話会社、遊技場、大手居酒屋の店舗が仙台中央の商店街に増えている。空き店舗が増えているとは思えないが、店舗の変遷はかなりなものがあるのだろう。隣で見ていた妻が「ああ!大内屋は毎年がんばってるね」「このお茶屋さんはいつもすごいのだけど今年はどうしたんだろう」「仕掛けがすっかり姿を消したね」と10年ぶりの七夕見学の感想を語っている。いちいちなるほどの指摘である。

  七夕は秋の季語である。七夕が終わり、高校野球が始まると仙台は萩の季節になる。

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夕食づくり

窓(H19.7.30NO31

 「夕食づくり」

 夕方になると私が住む団地にも「とう~~~~ふ」「とう~~~~~ふ」とラッパを鳴らして豆腐屋さんが来る。実際は、軽自動車に付けた拡声器からテープに録音した音を流しているのだが。この音がすると私は、包丁を置き、ガスを消し、財布を手にしてあわてて玄関にダッシュする。

 妻が勤めに出ている関係で帰宅が7時前になる。6時前に帰宅できた私は、6時ころから夕食作りを始める。カレーライス、肉じゃが、野菜炒め、マーボ豆腐、焼き魚におひたし、そのときの冷蔵庫の中身で適当に食いたいものを作っていた。豆腐屋さんがくれば、かご豆腐を冷やっこにできるし、厚揚げもついでに買ってありあわせの野菜で煮付けることもできる。しかし、できる料理はそんな程度で、凝ったものはできない。

 そこで食材を毎日自宅まで届けてくれる業者にお願いして、その業者が立てた献立どおりにレシピを見ながら夕食を作ることにした。なかなか凝った料理もテーブルにのせることができるようになった。しかし、毎日毎日運んでくださる食材でレシピ通りに料理を作っていると、今日はあれが食いたいとか今日はやっと手に入れた辛口の日本酒に合う料理がほしいとか思ってもそうはいかない。決まったメニューを明日に延ばせば、明日は二日分の料理を作らなければならなくなる。

 そこで当分食材を届けていただくのを止めることにした。しかし止めてみると、私が適当に作ったカレーを二日間食べることになったりする。どうしても大量に作る癖は、母親譲りらしく、適量にならない。オニオンサラダの残りは次の日の味噌汁になるし、牛筋の煮込みは二日目に家族から嫌われて捨てる結果となる。こういうときは豆腐屋さんの「とう~~~~ふ」の声が救ってくれる。新鮮な豆腐があれば、冷やっこ、揚げ出し豆腐、油揚げと野菜の煮つけでことがすむ。妻に「素材は豆腐だけジャン!」などと苦情を言われても私は豆腐さえあれば満足だからだ。

ところが、「とう~~~~ふ!!」の声にあわてて玄関にダッシュしても豆腐屋さんがつかまらない。豆腐屋さんは軽自動車を時速30キロで走らせているからである。私の家の前をあっという間に通り過ぎてしまうのだ。100メートルも先に行ってしまう豆腐屋の車を恨みがましく眺めたことが何回もある。近くのスーパーにいつ作ったか分からない豆腐はあるにはあるのだけれど、豆腐はやはり新鮮でないとうまくない。もっとまじめに豆腐屋をやれよと走り去る豆腐屋の車に捨てぜりふを投げかけ、今日は冷凍物を油で揚げて終わりと決めてしまう。

 私の今の職場は午後7時前にやっと家にたどり着くほど遠くになった。妻と一緒の時間に帰宅する。今は妻にご指導をいただきながら何がしかの料理作りの手伝いをさせられている。妻に調味料の量を聞いた。妻曰く「適当~~~!」。今日もテキトウの料理をいただくこととするか。

 

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137段

窓(H19.7.23NO30

137段

  137段。私が帰路、地下鉄を降りてバス停まで上る階段の数である。一気に登るにはなかなかきついものがある。4月から毎日登るにつれ、そのきつさが変わってきた。はじめは途中で足の筋肉が痛んだり、息が切れたりした。しかし、4ヶ月間の通勤で今はさほどきつさを感じなくなった。往路帰路を合計すれば毎日250段は登ることになる。

  3月まで私は、自宅の玄関から車まで、車から校長室まで合計すると何歩歩いていたのだろう。せいぜい50歩ほどであったろう。教室を見回るときもゆっくり歩を進めていたし、階段登りもたいした段数ではない。それを5年間も継続した私の足は、すっかり階段登りを忘れてしまっていたようだ。私の足が目覚めたとき、137段は大きな壁であったはずである。その壁が今は小さな壁になっているように思う。

  壁といえば日本地図作成に取り組んだ伊能忠敬について書いた新聞のコラムを思い出す。彼は49歳で隠居し測量を学ぶために高橋至高に師事し、55歳で第一次測量に挑み、4月から10月にかけ奥州街道、蝦夷地を測量して実測図を作った。73歳の死まで第十次測量を成し遂げた。

 伊能忠敬は、3つの壁を乗り越えた。3つとは物理的な物の壁。制度的な仕組みの壁。意識という心の壁である。まず物の壁-資金、機材の確保。それはこれまでの蓄財と信用で調達。仕組みの壁-一農民が他藩の踏破。そこで「公儀のお声掛かり」との公認を得る。心の壁-観測を学ぶには高齢。だが何と20歳年下を師に研鑚した。そして第十次に及ぶ測量である。

 137段の階段に今日も挑むなどと意気込んでいる私の脇を高校生や若いサラリーマンが二段とびで私を追い抜いていく。彼らにとってこの階段は壁などと写っていない。そこで私は自分に「一丈のほり(堀)を・こへぬもの十丈・二十丈のほりを・こうべきか」・・・目の前の自分の壁に潔く挑戦するのみと自らを励ます(?)慰める(?)今日の帰路ではある。

 

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これからの福祉は?

窓(H19.7.13NO29

「これからの福祉は?」

「腐敗する福祉」(厚生福祉 時事通信社)・・・・びっくりするようなタイトルの文章に出会った。案の定コムスンに触れて「医療を含め社会保障領域の株式会化は、理念も現実もその本質を壊していくだけではないか」と大いなる警鐘を鳴らした内容であった。

 コムスンの引き受け手が無いのではないかとの筆者の予想を裏切り、多数の手が挙がり「福祉で金儲け」が定着していることが分かったと嘆息しきりである。「株式会社となれば株への配当もコマーシャルも必要である。だがそれだけでなく、その金儲け肯定思想が、理念の根本で福祉を腐敗させていく」北九州あゆみの会理事長高松鶴吉さんは憤激を持って今回の事件を見ている。

 今、官から民への流れが急である。市社会福祉協議会は独立した社会福祉法人である。しかし全収入の約70パーセントが市からの補助金や委託金で経営されている。よって、他の福祉法人との相違は民間性、公益性、そして公共性という点である。その象徴的な例として職員の倫理規定は市職員と同じであることにも見られる。市民にとっては社協が官か民か分かりにくいものと写るようである。しかし、この点こそ他の社会福祉法人との違いであり、特色でもある。今後、市財政の困窮の中で補助金や委託料の縮小が当然のことであるため、独立した法人としては、会費、寄付金、サービス利用料、介護保険などの収入により財政基盤を強固にしなければならない状況である。

 市社協事務局長は、従来の活動の繰り返しや前例主義という役所意識の払拭が無ければ社協の未来は無いと職員の士気を鼓舞すると同時に福祉サービス提供の老舗としての誇りと向上心、積極性を持てと督励しているところである。

 社協には地域福祉の町づくりをする実績も使命感も理想もある。金儲けが悪いと一方的に決め付けず、理想の旗を高く掲げながら、現実的にはしっかりとした財政基盤を作る努力と実績を上げなければならない。理想を追って組織が死んでは何にもならない。財政基盤確立だけを目標にすれば理想は後退する。民間性と公益性、そして公共性まで視野に入れて活動するのが社協である。理想と財政の両面をしっかり視野に入れ、地域密着の地域の一人ひとりを視野に入れた福祉を目指せるのは社会福祉協議会だけである。

 「地域住民自身が福祉の担い手となるよう支援するのが私たちの仕事の根本だと思う。私は社協マンとしてそう思うの!!」と言葉に力を入れて語る我が事務所の職員。それを聞いていた一人の職員が「地域の人たちの笑顔を見ることが私たちの悦びですから」と言葉を続ける。我が事務所にはこのように大きな誇りを持った社協職員がいる。

 高松氏の憤激は十分同意するとともに誰がこの現状を打ち破り、範となる福祉法人経営をすることができるのか、これからの社協職員に期待していただきたい。

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紫陽花

窓(H19.7.11NO28

「紫陽花」

私が勤務する社協事務所には多くの方々が出入りする。町内会を始め地区社協の方々が自分の団体への配布物を印刷するためである。あるスポーツ協会の会長もよく印刷の来られる方である。今日は紫陽花の花束を持って事務所に入ってこられた。「家に咲いたものをただ切ってきただけだから」とちょとはにかみながら紙包みを手渡してくださった。

 早速私の机と事務所の正面に花瓶に入れてかざった。紫陽花は二種類。赤紫色に染まった鞠のような一枝。小さな小さな青い花が30個ほど集まり、その一つ一つの花が黄色の冠を付けた長いおしべを立てている。そしてそれを取り囲むように6つの装飾花である大きな紫色の花。額紫陽花らしい一枝。殺風景だった事務所に安らぎの空間ができた。

 私は、ある新聞で子育てエッセイをつづる浜文子さんの文章を思い出した。浜さんは花束を依頼する時、花屋に必ず贈る相手の年齢や環境、そして花を贈る理由を伝える。時には花を贈った方から花束を嬉しそうに抱いた写真が送られてくることがある。すると浜さんは、必ず花屋さんにその写真を持っていくという。花屋さんは「毎日、数えきれない花を送っていても、それがどんなふうにその方に届くかは、私たちには分かりません。こうやって見せてもらえると張り合いが出ます。うれしい」と話しているという。

 浜さんは、「意識して人の心をつなぐ努力をしないと、忙しい現代の中で、人の心が分断されてしまう怖さを感じるのです」とエッセイに綴っていた。いちゃもん化社会というけれど人は心がつながれば自然に感謝の言葉が出てくるものなのだろう。何気ない一枚の写真から人と人の心を結ぶ浜さんの習慣に私は心を打たれた。

 白髪のスポーツ協会の会長さんのはにかみながら差し出してくれた紫陽花の花束。そして机に飾ってある紫陽花。写真を撮ろうかなとふと思い立った。

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椿の実

窓(H19.7.10NO27

 「椿の実」

 梅雨空にひときわつややかな葉をピンと張った椿が目の前にある。たしか赤と白の斑(まだら)の八重の花を咲かせていた。朝のいつもの私の一服の場所である。

 南向きに植えられているこの椿は幹の周囲が20cmぐらい、高さは1.7mといったところ。実り始めの柿のような実がなっている。数えてみると私が見える範囲で13~15個ある。全体では30個近くと思われる。直径3cmほどの大きさになったその実は、まだつぼみを守っていた“がく”を身につけている。まだ実を独り立ちさせるには早すぎるというのだろうか。

 花が落ちた直後から次の年の花芽をつける。その花芽を最初から守っているのが“がく”である。冬本番には“がく”は綿毛のような毛をまとい、つぼみを守る。つぼみが花となり、実となっても“がく”はその花と実を守っている。次の命をはぐくむ知恵はこれまで見事なのかと感じ入ってしまう。そして、この“がく”も実が大きく膨らんだら自然に落下し、その使命を終えるのだろう。その瞬間を見ることができたら大きな拍手を送ってやりたい。いったいその時期はいつなのだろう。

 “がく”を開くタイミングが早すぎれば、つぼみは寒さのため壊死し、遅すぎても気温の上昇で腐食する。いったい“がく”が自ら開こうとするのだろうか、つぼみの成長によって“がく”が内側から押し開かれるのだろうか。私は“がく”とつぼみの相互の関係のように思われる。<口へんに卒>啄(そつたく)という言葉がある。「<口へんに卒>」は鶏の卵がかえる時、殻の中で雛がつつく音。「啄」は母鶏(ははどり)が外から殻をつつく音。内からの生まれようとする力と外からの""の願いが一つになったときこそ、「誕生」の最大の好機なのだという。

 今「ひきこもり」や「切れる」など子どもにかかわる寒々しい情報が流れる。ある新聞の記事に臨床心理士・高塚雄介さんは「ひきこもり」「切れる」子どもの背景には心理的防衛力の欠如の問題がある。心理的防衛力とは葛藤処理能力とも呼び、人が直面する矛盾を乗り越える力である」と書いていた。また高塚さんは、この力がないのに自立や自己決定を強いられるため、子どもは行き場を失い「ひきこもり」「切れる」という。そして過保護型、過干渉型、放任型による偏りのある親子関係が、子どもの心のゆがみを生んでいるのではないかと問題を提示していた。

 少子化が大きな社会問題となっている昨今、親は、いきおい過保護・過干渉になり、必要以上に手をかけ、子どもの自立を妨げるケースも目につく。

 椿の小さな実は、私たち人間に子孫を大切にする知恵を示唆しているように思えた。

 

 

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国歌斉唱

窓(H19.7.7NO26

「国歌斉唱」

 民生委員制度創設90周年記念全国民生委員児童委員大会が東京・日本武道館を会場として催された。始めに天皇皇后両陛下臨席のもと式典が行われた。

 平均年齢が70歳代の方々の集った大会である。戦中に小学生、中学生だった方々である。その方々は敗戦という途端の苦しみの中に投げ出され、青春を世の中の混乱の中で過ごさざるを得なかった。

 式典の冒頭、国歌を斉唱した。

私は35年間小学校教員であった。毎年最低2回は国歌を斉唱してきた。若い頃の職員会議では、年に1回国歌について日教組の組合員がためにする論議を仕掛けるのが常であった。その論議が不毛であることを身をもって体験してきた。しかし、現在でも学校という場では国歌斉唱が誇りを持って行われているとは言い難い。そんな経験を持つ私は、この大会で、しかも天皇皇后を目の前にしてどのように国歌斉唱が行われるのか大変興味を持った。

 一人ひとりの声は大きくもなく、小さくもなく、それでいてしっかりと歌っていたという印象を持った。私はある種の感慨を持ってその歌声を聴いていた。お一人お一人はどんな思いで苦労多き若い時代をすごしたのか、その苦労が国家の国民に対する裏切り行為に起因することをどう捕らえてきたのか、今国歌を歌うお一人お一人にどんなことが胸に去来しているのだろうか。今国歌を歌う5000名以上の方々。この方々は一人の人間としてただ前を向いて生活のため生きてこなければならなかった。暴力で政治体制を変えても幸福にならないことも知っていた。ただ夢中で戦後の繁栄を支えてきた。その中で培ってきた分別や良識が大きくもなく小さくもない歌声となっているのだろう。

 国歌斉唱後に天皇のあいさつがあった。天皇は民生委員の創設の歴史に触れ、これからますます重要となる民生委員制度に期待を寄せると語った。天皇は時折原稿から目を上げ、しかもご自分の文章ではないかと思わせる内容を自分の言葉にして語った。

 両陛下が退場する際、皇后が会場全体に手を振った。大きな拍手が沸いた。皇后に向けて手を振り返す女性参加者も数多くいた。しかし、ハンカチで目頭を押さえる人や立ち上がる人はひとりもいなかった。冷静といえば冷静、落ち着いているといえば落ち着いている見送りであった。これが小中学校で天皇崇拝を教育され、戦後は民主主義を教えられてきた方々の分別と良識なのだろう。

 ここに参加した5000名の民生委員児童委員は身をもって価値観の大転換を経験してきた。もう簡単にはだまされることもない、もう簡単に崇拝したり批判したりもしない。そして、次の時代をリードする人々を選択する物差しは、自ずと感覚として持っている。そんな冷静な分別と良識を感じた式典の40分であった。

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分  別

窓(H19.7.7NO25

 分別

 

「分別」という言葉がある。

 60歳代4名、70歳代6名、67歳が最年少、77歳を最年長として10名の方々の引率のお手伝いをした。仙台駅から新幹線とバスを使って5000名以上が集まるという東京・日本武道館まで行く。出発前は、10名の方々の一人でも一行からはぐれることを最も心配した。老人にありがちな自分の都合優先の行動も心配の一つだった。仙台駅集合時に忘れ物はないか、気温はどうか、水分補給は、トイレ休憩は、途中体調の変化があった時は、東京駅でのバス乗り換え時や武道館の人ごみの中で、集団からはぐれてしまうのではないかなどなど。しかしである。旅行業者の付かない道程にかかわらず整然と会場に到着し、全員が落ち着いて着席した。

 私が引率したこの方々は、日ごろ自分の地区内の人々に心を配る民生委員の方々である。さまざまな事情を抱えている地域の方々に耳と心を傾けたり、遠くから見守ったり、相手の気持ちを大切にし、しかも相手の自立を根本に置いた助言を行っている方々である。どんなに一人ひとりに配慮しても必ず心無い非難の矢が飛んでくる立場でもある。地域の人々の幸せを願う慈悲と非難や批判を懐に深く受け止める受容の心がなくてはできない奉仕の仕事である。10名の方々は、その仕事を5年10年と経験してきた。そして今も民生委員の現役であり、地区民生委員のリーダーである。

 この10名の方々に比べれば私なぞまだ小僧である。しかし、その小僧の説明や指示を受け止め、整然と行動する。時には私に「ご苦労様、大変だね。お世話をかけるね」と声をかけることも忘れない。

 私には分別というのはこういうことだと感じさせられた一日ではあった。

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あじさい

窓(H19.7.3 )NO24

あぢさゐ

 

6月の平均気温はいつもの年より2度程度高いと聞く。雨の日もずいぶんと少ない。しかし、一昨日、梅雨時にふさわしい雨が降った。事務所に戻ってきた職員が、携帯電話のカメラで撮影して来た。「あまりにも美しかったので、つい撮っちゃった」と見せてくれたのは雨にぬれ青々と群れて咲く紫陽花である。

 紫陽花は日本原産である。シーボルトがこの花に「オタクサ」と名前を付けたことは有名である。彼の日本での愛妾「お滝さん」の名を潜ませたと非難したのは植物学者の牧野富太郎である。

 小学校2年生の国語の教科書だったろうか。「あじさい」という詩があった。紫陽花の花を「まり」と表現し、雨の重みで時々揺れる様をよんでいた。児童はその詠われている様子を心に思い描きながら、いつもよりゆったりとやや小さめの声で音読をし、暗誦して共にその情緒を楽しんだことがある。

 青年に「紫陽花談義」をさせるとこうなるのだろう。「どんなに雨が降っても、かえって美しい花を咲かせる」「耐寒性が強く、北海道から沖縄までどこでも栽培できるらしいね。土を選ばずに生長する」「一つの色に安住せず、次々と色彩革命していくところもいい」「一つ一つの小さな花が集まって大きな花毬となっている」何かをなそうとする意気がある青年たちは情緒だけではなく、人の生き方まで花の姿から感じ取る。

 正岡子規は「紫陽花やはなだにかはるきのふけふ」と詠った。

 定年を迎えた私は、「あぢさゐの真水の如き色つらね」(高木晴子)という句がお気に入りである。その色の深さが心に染み渡る。

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60歳代の介護員

窓(H19.7.2 )NO22

「60歳代の介護員」

手元に時事通信社の「厚生福祉」という小冊子(週2回発行)がある。1ページ目に社会福祉法人人の理事や行政の首長が随筆を書いている。今回は

長野県佐久市

長の三浦大助さんが「老人クラブに青年部をつくろう」と題して寄稿している。65歳以上でも老人クラブに入らない人が増えている。それは元気に社会的活動をしている人が増えているからである。よって、老人クラブに青年部をつくろうと提案している。

 介護保険制度が始まって訪問介護員(ヘルパー)の支援を受ける方も増えている。ヘルパーさんや介護福祉士さんは若い方が多い。制度自体が新しいことによるのであろう。遠くに住む一人暮らしの親について相談があった。ヘルパーさんから「家が汚いし、ねずみも出る。尿の匂いもして訪問できない」といわれたとのこと。また介護を受けているある老人からは「さばの味噌煮が食べたいといったら、生姜なしの味噌煮が出来上がった」「よく話は聞いてくれるが意味が通じないようだ。遠慮があるから文句も言えない」との相談もあった。

 介護支援サービスをする方の性別や年齢層の希望は、介護を受ける人によって多様である。自分の息子や娘と同年代の介護員が良いという人。20代の若い人が良いという人。自分に年齢がなるべく近い人が良いという人などである。希望に沿った介護員を派遣したくても介護員の体力の問題がある。話を聞くだけというなら希望に添えても掃除や簡単な買い物など、フットワークの良いことも介護員には求められているからである。

しかし、フットワークのよさだけではなく介護される人は精神的な癒しを強く求めていることが多い。認知症の発症を少しでも遅らせる試みとして「会話」による「回想法」の効果が取り上げられている。70歳、80歳の方が子どものころの思い出や自分の愚痴や昔自慢を語る時、分かってくれる人となると60歳代の人の方が良い場合もある。

 定年を延長し65歳まで働けるようにするのも一つの方策である。しかし、60歳から一定期間講習を受け、介護の仕事ができるようにするのも一つの方策である。60年間の人生経験を持つ人は、家の汚さも、ねずみが出るのも、尿の匂いがするのも理解し、対処できるのではないだろうか。あくまで年齢ではなく介護員の人柄が基本ではあるが、人生経験の長さが人としての受容体の大きさに通じ、知恵の多さにもなっているのではないだろうか。老人クラブに青年部をつくることは、60歳からの社会貢献者の育成という提案とも受け取って良いのではないだろうか。定年後の金銭的報酬は多くを望まなくても良い。人生を終わろうとする人たちに対して、今までのご苦労をねぎらい、心を癒し、そして自らの人生の終末を見つめることに大きな意味を見出す60歳代も多くいることだろう。

 看護職不足対策として外国人看護職を日本に招くことも方策としてあるのかもしれない。同様に介護職も外国人に頼ってよいのだろうか。社会福祉士や介護員の量の拡大と質向上には、定年後の60歳代の人を人材とみなし、再育成し、社会的活躍の舞台を設けることも社会福祉にとって一つ良い方策ではないだろうか。

 

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願兼於業(がんけんおごう)

窓(H19.7.2NO23

願兼於業(がんけんおごう)

 「重い障害を担って懸命に生きる人たちは人生の教師である」とは、京都太陽の園常務理事の徳川輝尚さんの文の一説である。徳川さんがこの文の中で脳性まひによる重い障害のため寝たきり生活のK子さんを紹介している。K子さんは母が死の床にいても娘として何もできない。K子さんの詩に、「母にいっぱいの水も飲ませることができない。このときほどこの荷物(障害)が重くのしかかったことは無い」・・・・「それでもこの荷物は私にしか背負うことのできない大切な荷物なのだ。この荷物のおかげで心の悦びと平和とを知ることができた。感謝しよう」

 感謝という境地まで至ったK子さんの心の変化は紹介されていない。しかし、自らの宿命に立ち向かう勇気がK子さんにあったことだけは想像に難くない。

「だれしも宿命はある。しかし、宿命を真っ正面から見据えて、その本質の意味に立ち返れば、いかなる宿命も自身の人生を深めるためのものである。そして宿命を戦う自分の姿が、万人の人生の鏡となっていく。すなわち、宿命を使命に変えた場合、その宿命は、悪から善へと役割を大きく変えていくことになる。全てが、自分自身の使命であると受け止めて、前進し抜く人が、宿命転換のゴールへとむかっていくことができるのです」とは私の人生の師の指導である。

 「宿命を使命に変える」という姿勢は、仏法で「願兼於業(がんけんおごう)」という。「願(ねがい)、業を兼(か)ぬ」と読む。自ら願って今の立場に生まれ、自ら願ってこの悩みを目の前にしているのだ。だからこの悩みを使命と受け止め、解決しようと懸命に生きようと考えれば、他人のせいにする恨みがましい被害者意識は消え、自ら主体的に生きていくことができる。きっとK子さんはそのような考えに至ったのだろう。だからこそ徳川氏をして「人生の教師」と言わせしめたのだろう。

 「人生に起きたことには必ず意味がある。また、意味を見いだし、見つけていく」「悩みがないのが幸福なのではない。自身に具わる生命力で、どんな悩みも乗り越えられると心を決める。それが自身の幸福への力なのだ」とは、学生時代に先輩が真剣に私に指導してくれたことだ。K子さんの詩は私の原点を思い出させてくれた。

 

 

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自分の軌跡

窓(H19.7.2 )NO21

「自分の軌跡」

 私が母と町を歩いていると、「乞食」に出会った。戦後間もないときである。家を失った方や傷痍軍人風の方がたくさん町を徘徊していた。私は「あ!乞食だ」といって指差した。すると繋いでいた手を急に離した母がしゃがみこんだ。私の目をじっと見て「何かのわけがあって今あのような姿をしているのです。その人の悲しみも分からず見た目で、しかも指まで指して『乞食』と言うのはとても人としていけないことです。二度とそのようのことをしてはいけません」いつに無い厳しい顔の母を今でも忘れられない。

 「見た目で人をさげすむことは人として恥ずかしいこと」「弱い立場の人にはとりわけ温かい心で接すること」「共同募金には自分のお小遣いで必ず募金すること」「学校で困っている人を見つけたら応援すること」そして「近所の人には帽子を取って必ず大きな声で挨拶をすること」「先生の目を見て話を聞くこと」などなど一つ一つ母は私の前にしゃがんでは私の目をじっと見て話した。その光景一つ一つが今でも目に浮かぶ。

 学生時代は、社会体制変革を叫ぶ学生運動家ばかりがいた。私はそれに同意できなかった。私は「病人と貧乏人しかいない」と馬鹿にされた宗教団体で夢中になって活動した。そこで私は人生の師と出合った。

 社会に出てから中学校の同窓会があった。懇親会の間中私のそばに居続けた一人の女性がいた。中学校時代特に親しくしていたわけでもない。会が終わるころその人がこんな話をした。「あなたは、私の片足が悪くてびっこを引いている私を級友が冷やかしたとき、顔を真っ赤にして『それは人としてやってはいけない』と真剣に話した。その時のことが忘れられない」と話していた。

 小学校の校長になったとき私が一番の方針として出したことは、「健康な人が少し我慢すれは、障害を持っている人が幸せになるというなら、ちょっと我慢をすること」であった。色素性乾皮症の児童が二名入学するということを知って出した方針である。色素性乾皮症の児童は体育館の白熱灯のライトでもやけどをする。体育館の照明を付けないで入学式を行うことにした。職員からは多くの児童の晴れの入学式をたった二人の児童のために薄暗いところで行うことは疑問であるとの声があった。今度着任した校長である私の方針をご了承くださいと話し、理解をしてもらった。

 学校に来られずに自宅に篭ってしまう児童もいた。保護者の苦しみは尋常ではない。保護者から「親の会」立ち上げの要請を受けた。理解ある教頭が早速立ち上げた。教室に入れない児童の指導を専門にする教員は学校に配当されていない。養護教諭資格を取れる課程を持つ大学に依頼し、学生ボランティアを派遣してもらった。担任と学生ボランティアの努力もあってその児童たちが学級に入れるようになった。

 私は小学校を退職することになった。先輩校長から社会福祉協議会に再就職してはどうかと声が掛かった。今、社会福祉協議会にいる。なぜ私が社会福祉協議会にいるのかこの3ヶ月自問した。そして、今、自分には一つに連続する軌跡を歩んでいるように思える。

 ところで、私が小学校1年生のとき、母の教えよろしくじっと先生の目を見て話を聞いていた。すると先生は「先生の目を見て話を聞いている人いるけど、話を聞くときは、先生の喉の辺りを見て聞くのがいいのよ」と私をチラッと見ながら指導した。母のしつけも社会ではもう一ひねりしなくては?とか、僕の視線が嫌な人もいるんだ?僕の目つきがよほど悪いのかとか・・・。小学校1年生にして考えたことも思い出ではある。

 

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ミュール

窓(H19.6.26 )NO20

ミュール

  地下鉄に乗ろうと階段を下りる。後ろから「コーン コーン」「カーン カーン」と大きく高い音が地下の空間に響き渡る。若い女性が履いているミュールの踵の音である。ハイヒールはこのような音は出ない。特別の金属でもそこに打ち込んであるのだろうか。

 その音は私にとって特に不快なわけでもない。しかし、その音の大きさは驚くほどである。履いている若い女性は気にも留めない風であるが、実際は音を楽しんでいるようにも思える。そうでなければ歩き方に躊躇が感じられてもいいはずである。若い女性は堂々とその音と一緒に歩んでくる。

  私は学校の教師になりたてのころ、山間部にある小学校に勤務していた。教員独身寮は学校の裏山にあり、8人ほどの小中学校の教師が生活していた。そこから学校まではコンクリートで固めた細い道があった。私は腰にタオルを下げ、下駄を履いて学校までの道を歩いた。当然下駄を鳴らしてである。春の道で鳴る下駄の音が、近くの緑濃い山にこだまする。新米教師の私は、日々慌しく仕事をしていた。児童が目を輝かせる授業ができず悶々ともしていた。しかし、毎朝、下駄を鳴らして周りの山々に響かせる瞬間は自分を取り戻せるような気がして大好きな時間であった。ある日の朝、「教頭先生が呼んでいます」と声が掛かった。教頭先生から「教師が下駄をはいて出勤とはだらしない。すぐやめなさい」とのことであった。その言葉に私は驚くと共に下駄を鳴らして歩く若者文化を理解できない頭の教頭先生をさげすんだ。あまりのばかばかしさに抵抗する気にもなれなかった。しかし、いつの時からか私は革靴を履いて出勤するようになっていた。

  ミュールの音が聞こえなくなるのはいつのことだろう。いつまでもミュールの靴音と共に誇り高く堂々と歩く若い女性がいてほしい。

 

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メントール

窓(H19.6.26 )NO19

「メントール」

  朝出勤する交通機関バスと地下鉄。それを降りて勤務先の事務所近くにやっとたどり着く。その時の最大の寛ぎは地下鉄入り口の公園の桂の木を見ながら一服することだ。桂はハート型した若葉が雨をたっぷりと吸って大分大きくなってきた。

 じっと見ているとどの枝の先端もふたまたに分かれて伸びている。他の木々は三又に分かれて伸びたり、枝の途中から直角に天に伸びたりする枝もある。しかし、桂は常に枝の先端からふたまたに分かれて伸びる。まるで枝の先端から双子が生まれるような具合だ。

 私が吸っているタバコはメントールが含まれているものだ。ハッカのスーッとする香りの成分を「メントール」という。このメントールを生み出す研究の基礎を築いたのが2001年にノーベル化学賞を受賞した野依(のより)良治名古屋大学教授である。組成は同じだが、分子の結びつき方が、鏡に映したように対称的な二つの種類。まさに右手と左手の関係。ハッカの独特な香りは、その一方にしかない。もう一方はほこりっぽく、消毒薬くさい。野依教授の研究は、鏡に映したように対称的な形を持つ化合物の作り分けを可能にした。実は、作り分けは不可能と言われ続けていた。野依教授は「74年にスタートして6年かかった長丁場、みんなあきれてましたね」(ネイチャー インターフェイス・・・ノーベル賞受賞記念インタビューより)と粘り強い研究を振り返っておられた。野依教授の少年時代は、野山をかけまわるガキ大将。山の中を探検したり、川で泳いだり、チャンバラごっこをしたり。遊び仲間からは「ノブタ」というあだ名を付けられた。野依少年は湯川博士がノーベル賞を受賞するというニュースを耳にする。その時、湯川博士と科学への強烈なあこがれが胸に刻まれたという。

 今朝の一服は封を切ったばかりの箱から出した一本である。メントールの刺戟がなおさら心地よい。

 

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いちゃもん化社会と言うけれど

窓(H19.6.14 )NO18

「いちゃもん化社会と言うけれど」

 6月12日の朝日新聞天声人語は、理不尽な物言いが看護・介護を含むサービス業の世界にも広がっている様子を「いちゃもん化社会」と呼ぶ学者がいると紹介している。

 私が小学校の校長職にあるとき、さまざまな苦情をいただいた経験がある。苦情を聞き取っているときは、「そう考えることは、あなたやあなたのご家族、そしてお子さんの幸福に決してつながりませんよ」と思いながらじっと耳を傾けた経験がある。苦情を言う方が帰った後、改めてその苦情を思い浮かべると「そのような苦情を言わざるを得ないほど、苦しんでいるのだな。何とか応援できる手立ては無いものか」と冷静になることが多かった。

 「いちゃもん」と捉えればその「いちゃもん」をただ耐えて聞くことになる。自校改革のチャンス、自己改革のチャンスと考えるよう、自分の気持ちを立て直さなければ、ただ辛いだけである。「どうしてやろうか!」との怒声を出さず、苦情を言う保護者の心の苦しさを思って「どう支えようか」と自分の口に出して言ってみることにしていた。担任の先生を学年主任中心に学年の教師で支えている姿が、保護者を「どう支えるか」との校長の姿勢を後押ししてくれていた。

 私が現に勤務する社会福祉協議会は権利擁護センターの役割も担っている。認知症高齢者、知的、精神障害者などで判断能力が十分でない方が、地域で福祉サービスを適切に利用し、自立した生活を送れるようお手伝いする仕事である。支援員や専門員が担当する。しかし、理不尽な申し出や行動に悩まされる日々が続く。事務所に帰ってくる担当者の顔に疲労の色が浮かんでいる。そのような方々を支援する活動について勉強もし、訓練も受けている専門員ではあっても、時には辛い思いをしている。このような仕事を「肉体労働」「頭脳労働」に対して、「感情労働」と言うらしい。

 かつては、助言を受ければ、「それはこれこれの理由がある」と受け止めようとしない自分。提言を受ければ、「それは今やろうとしていたところ」と自己弁護する自分。文章の書き方を二度も指導をされると、「最初の段階でしっかり見ておいてほしい」と指導する人の行為をあげつらって自己のプライドが傷つくことを嫌がっていた自分がいた。言わばいちゃもんをつけて反発していた。しかし、成長できない自分を幾度か振り返ると素直に指導を受けとめられるようになる。一時は反発という感情に支配されることがあるかもしれない。「いちゃもん」をつける素直でないやつと先輩は私を見捨てなかった。先輩が根気よく指導してくれた。これからの成長に期待し続ければ、きっと人材に成長すると信じてくれていた。

 「いちゃもん化」と評論家ぶらないで、忍耐強かった先輩のように日々ありたいものだ。

 

 

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6月12日は総合防災訓練

窓(H19.6.12 )NO17

「6月12日は総合防災訓練」

  6月12日は29年前に起きた宮城県沖地震()の教訓生かすために、防災の日として市では総合防災訓練を実施してきた。今年度はある地区を重点地区として、訓練が実施された。 市社会福祉協議会は、市から委託を受けて、災害ボランティアセンターを立ち上げる対場にある。そのため今回区社協として、災害ボランティアセンター開設訓練を行った。

  今回の総合防災訓練は、「-自助・共助―高めよう 地域の防災力」をテーマとして行われた。テーマにある「自助」とは、他人の力によらず、自分の力だけで事を成し遂げることであり、「共助」は、互いに助け合うことである。なぜこのようなテーマを設定したのだろう。

 市は自ら被災した経験と阪神大震災(平成7年1月17日)や新潟県中越地震(平成16年10月23日)の被害を教訓として、さまざまな態勢を構築してきた。今回の訓練は50項目にわたる大掛かりのものである。訓練に参加した各団体は日ごろの備えを生かした見事なものであった。

  上空で偵察していた消防ヘリが複数の倒壊家屋を発見し、無線で本部に通報。県警レスキュー隊が震災対策用資機材や破壊器具などを使用し、救助活動を行う。一方、宮城レスキューサポート・バイクネットワーク隊が被災車両を発見し、無線で通報、また自衛隊隊員は土砂崩れで埋没した乗用車内から負傷者を救出し、ボランティア医師団が高度医療行為を施し、重傷者を消防ヘリと自衛隊ヘリで緊急搬送する。

  15分から20分で組まれた訓練が次々に正確に実施される。訓練が始まるごとに特別な歓声などは上がらない。見学しているほうも訓練しているほうも余計な声は出さない。ただ、隊長がハンドマイクで解説しながら進める声だけが聞こえてくる。まさに粛々と実施されていく。メキシコ大震災をこの身で経験し、その後メキシコで行われた避難訓練に参加し、その様子を目の当たりにしてきた私には信じられない整然さである。

  しっかりした訓練がこの29年間積み重ねられている。だからこそ、今最も大切な訓練は、住民一人ひとりが自ら行わなければならないこと、それが今回の総合防災訓練のテーマなのだ。「自助と共助。そして地域の防災力」。してもらうのが当たり前ではなく、自らできることを自ら行うそれが自助であり、共助である。

  市の行政が進めてきた防災力を何倍にも大きな力にするには私たち一人ひとりの自覚なのだと教えられた今日であった。

  ところで区社協が立ち上げた災害ボランティアセンターでは、聴覚障害の方の要請をききとるため、手話通訳者ボランティアと連携を取ったり、外国人の要請を聞き取るため、語学ボランティアと連携を取ったりするなどの訓練を行った。いざというとき、手話通訳者や外国語に堪能な方々が災害ボランティアセンターに駆けつける用意をしていることも市の努力によるところと市民の宮城県沖地震への危機感のなせるところである。

 ※昭和53年(1978年)6月12日,17時14分,マグニチュード7.4(震度5)の地震が市を襲いました。気象庁により「1978年宮城県沖地震」と命名されたこの地震では,現在の市域(旧泉市・旧宮城町・旧秋保町の区域を含む。)で、死者16人,重軽傷者10,119人,住家の全半壊が4,385戸,部分壊が86,010戸という多大な被害が生じました。この地震は,当時の人口50万人以上の都市が初めて経験した都市型地震の典型といわれました。(市防災・緊急情報より) 

http://www.city.sendai.jp/syoubou/bousai/sairai/index.html#1

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公園デビュー

窓(H19.6.11 )NO16

「公園デビュー」

 今日はお父さんの会社が休みなのだろうか。2歳ほどの女の子と公園の砂場で一緒に遊んでいる。帽子をちょこんとかぶった裸足の女の子は持参したバケツとジョーロを手に水のみ場に水を入れに行く。お父さんが後に続く。砂場に誰もいなくなったとき、お母さんの自転車に乗せられて黄色地に赤い花柄のシャツを着たこれも2歳ほどの女の子が到着した。花柄のシャツの女の子は、砂場に置かれている裸足の女の子のプラスチック製の水色の熊手を早速見つけ、走りよった。

 「のーんの!(女の子の愛称らしい)ダメ!」ベンチに座っているお母さんの声が飛ぶ、しかし、遊び道具の魅力には勝てない。置いてあった熊手で砂を掘り始めた。そこに裸足の女の子とお父さんがバケツとジョーロに水を汲んで帰ってきた。「一緒に遊ぼう!」と裸足の女の子。花柄シャツの女の子がまずはじめたことは、作ってあった砂の山を踏み潰すことである。お母さんの声が飛ぶ。「のーの!ダメでしょ!」2~3メートル下がって二人の女の子の様子を見ていたお父さんが「貸してあげなさい」と可愛い熊手や柄杓、スコップを指差した。

 しばらくバケツをはさんで座った二人。水の入ったバケツに砂を入れたり、水をかき回したり、無言だがそれぞれ手にした道具で遊びに夢中になる。そのうち私が期待していたことが起こった。道具の取り合いである。さあ!二人の親はどう反応するのだろうか。お父さんは動かない。動けないといったほうが良いかもしれない。お母さんはゆっくりと二人に近づく。なにやら話しかけるが、急に二人の女の子が水のみ場に走り出した。どうやらバケツの水の交換らしい。花柄シャツの女の子が蛇口を開けようとしたが開かない。お母さんが少し蛇口をひねってやる。

 子育て関連のホームページに「子供同士がものの取りあいなどでけんかを始めても、大人が介入しない。子供同士の解決を待つ、見守るをルールとしている」とあった。これも一つのルールである。なにを子どもに注意をするか、または何を取り上げて誉めてあげるか、二人の女の子の親が自らのうちにルールを作っていくことも大切なのだろう。

 裸足の女の子のお父さんと花柄シャツの女の子のお母さんは、まだ一度も会話が無い。きっと始めて出会ったのだろう。二人の女の子はもうすっかりうちとけている。公園デビューとは、子どもの社会性育成という親のデビューのことだ。人とのかかわりかたを親自身が自己に問いかける機会だ。

 二人の親がうちとけ、会話を交わすまでにはもう少し時間がかかりそうだと思いながら、お昼の休憩時間終了間際の私は事務所に向かった。

 

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鴻  鵠

窓(H19.6.9 )NO15

鴻  鵠

 朝は濃霧、昼は夏を思わせる湿度高い暑さ、夕刻は雷雨。入梅前、一日の天気はめまぐるしく変化する。

 昼休みに事務所近くの児童公園のベンチに座っていた。公園中央に円形の植え込み花壇がある。中央に2メートルほどの常緑樹が植えてある。その木の根元に3羽のすずめが戯れていた。眺めていると時々すずめがふと消える。1羽だけ消えるときもあるし、2羽同時に瞬時に姿が見えなくなる。どうやらすり鉢状に掘った砂浴び場があるらしい。ベンチに座っている目線からは瞬間に消えたように見えるわけである。

 3羽のすずめがその砂浴び場をめぐって意地悪をし合っている。とうとう喧嘩になって3羽とも飛び去っていった。これ幸いと私は砂浴び場を見に行った。すり鉢状に掘られた穴が合計6つ。いや数日前に使ったらしいものも含めると10箇所以上直径2メートルの円形の花壇に作られている。すり鉢はやや楕円で最小の直径が15センチメートル、大きいもので20センチメートルある。深さは5~7センチメートルというところだ。近くによって砂浴び場を観察していると何やら視線を感じた。3羽のすずめが電線に止まって私を観察している。これは失礼と早々にその場を立ち去った。

 すずめといえば、すぐ思い出すのが「燕雀(えんじゃく)安(いずく)んぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや」である。すずめも馬鹿にされたものだが、自分の縄張りに闖(ちん)入してきた人間を上から眺めているなどなかなかである。大物ぶってこの言葉を使うのも一時いいが、この言葉を吐いたという陳渉にしたとて自軍の兵は燕雀といわれた雇われ農民である。兵があって戦えたのだから燕雀こそ大事にされなければならないだろう。